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1542539271 今の時代というのは、一方でエビデンス・ベースと言って医療や教育や政策に経験的な証拠による根拠が求められる考 え方が広まっているが、他方でポスト・トゥルースとしてフェイクニュースが当たり前に蔓延してしまう傾向にもある。一見、これらは真反対の傾向だが、それ らが基づく人間の本質は同じである。つまり、人は自分に都合のいいように物事を信じるという傾向だ。今どき、精神分析やマルクス主義を科学的に正当化でき ると思うのは困難だ。つまり、(天才な)大学者による大理論をそれ自体で(正しいから)信じるという時代は20世紀で終わってしまった。大理論ほどちょっ とした経験的証拠によって(その整合性が)崩れやすいがゆえに、信じることにはデメリットが多い。もはや個別に証拠に基づいて検証していく地道な道しかま ともな方向はない。
しかし、そのような方法論的自然主義が求められるのも、(例えば確証バイアスなどによって)人が好き勝手に都合のいいように物 事を信じがちな傾向を持っているからでもある。そして、その傾向が全面的に発揮された結果がポスト・トゥルースの時代でもある。ポスト・トゥルースの時代 とは、ただ偽ニュースが蔓延する時代というよりも、人々にとって真偽の基準が曖昧になった結果として偽ニュースが蔓延するようになったのだ。そういう点で はポスト・トゥルースの時代とはポスト脱構築の時代でもある。有限なるこの世では確実さなど初めから不可能な故に伝統を受け入れる保守が失われ、自分が正 しいと思っている都合のいい信念を守りたいがために都合のいい根拠のない言説を受け入れる素地が揃ってしまったのだ。
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要するに人工知能そのものにおいて、第二期ではまだ人間並みの知性が目指されていたが、現在の第三期では人間並みというリミッターが外れてしまったんだと思う。
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##### おまけ(オリジナル完全版)
たまたまある批判に気づいたので一応答えておきます。ま ず、ここで述べた特徴は第二期の(認知科学的な)ニューラルネットワーク研究一般にだいたい当てはまることであって、Nature論文だけに限定しては論 じてません。第二は、ここで心理学データとの一致というのは必ずしも厳密に受け取る必要はなく、観察される心的な現象(行動)に似ている程度にゆるく捉え てもらって構いません(初期はデモンストレーション的な要素が強かったのでは…と推測)。私の見解に疑問のある人は、ここでリンクした2つ目の論文を読ん で内容を確認してください。そっちのほうが正確です。実際に心理学的なデータと比較した研究もあります。
重要なのはそういう方向へと当時のニュー ラルネットワーク研究が流れたという事実です。そして、この点を押さえておかないと(リンクした1つ目の論文で既に指摘されているように、Back propagationが新規なものでない以上)第二期のブームが何故起こったのかを理解できません。大事なのは、現在から見てどうなのか?ではなく、歴 史的な視点から見てどうなのか?の方だ。当時の研究者がどのような状況でどのような情報を持っていてどのような問題意識を持っていたのかを想像することを お勧めします。現在の基準で過去を測ってはいけない。
説教臭くなってすいません。これは今回の件に限らず前から気になっていたことなので、つい口が滑ってしまいました。もうこの件はこれで終わりだと思います。ここまで読んでくださった方、ありがとうございました!
m(_ _;)m
1541070114 はてなブックマークにコメントを久しぶりに書いた。てか、はてなブログのコメント欄が使いにくいので、半ば仕方なく。正直、はてなブログはなんか色々と使いづらい。
1541063878 久しぶりに専門書も売っている大きな書店に行った。認知科学関連については、デネットやホフスタッターの翻訳の新 刊があったり、古典的な著作の文庫化がされたりと、認知科学にとっては状況は(一時期のを考えたら)そこそこだろう(でも、あっ!と思うような新刊は相変 わらずない)。そこは今更あまり期待してないので気にもしてないが、なんだかなとも思うのが、未だに現代思想や理論社会学の残党による新刊が多く目立つと いうことだ。人工知能だってブームと言われてる割には、一般書としてはビジネス寄りの実用書か、西垣通(本来の専門はメディア論のはず)のような現代思想 の残党と同類みたいな思想書か、どっちかばっかりで、まともなのは新井紀子はじめごく少数じゃねぇのか?と疑いたくなる。結局見る目のないミーハーなやつ ばっかりだから、過去の延長の古臭い話か、ブームになってからの泥縄野郎か、どっちかにならざるを得ない。私だって今更になってコネクショニズムを始めと する人工知能の知識が再び役に立つ時が来ようとは予想もしなかったが、いざそうなってみると言論や出版の状況には不満ばかり感じる。私に言わせれば重要な のは、きちんとした問題意識を持った上で古びたものも含めて基礎知識をみっちりと身に着けてその上で新しい話についていけるようにすること。現在(問題意 識)、過去(基礎知識)、未来(好奇心)のすべてが必要なのだ。
1540975963 既にブログの記事でも論じたTauber et al."Bayesian models of cognition revisited"だが、この論文のGeneral Discussionにある「鏡の国のアリス」からの引用(二箇所)を改めてきちんと読んでみたら、どう考えても(ブログの記事でも示唆した)彼らのして いるベイジアンの合理的アプローチへの揶揄にあまりにぴったりだったので笑ってしまった。
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「俺が言葉を使うときは、それは俺が意味しようとすることしか意味しないんだよ」とハンプティダンプティはこちらを見下すように言った。
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「問題は、あなたがそんなに多くの違った意味を言葉に込められるのかどうかなのよ」とアリスは言った。
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実は鏡の国のアリスは子供の頃の愛読書だったので引用部分の文脈は分かるが、今回はそれはどうでもいい。要するに、合理的分析が込めたい意味をベイジアンという道具を通して勝手に込めているに過ぎないんじゃないか?という懸念の現れそのものでしかない。
1540724305 ### 認知モデルとしてふさわしい基準は何か?
認知モデルは初期の古典的計算主義の時代からその批判を 経て、現在の確率論(特にベイジアン)の時代に入った。だが、そのせいでむしろどうすれば何が認知モデルとしてふさわしいのかがよく分からなくなったとい う面はある。一時は脳イメージングのブームによって(認知科学的な事情を分かってない人の間では)還元主義がもてはやされたこともあったが、今は逆にその 限界から計算論的神経科学が見直されたりもしている。身体化論者の中では反表象主義というほとんど認知モデルの否定みたいな見解の人もいるが、科学的な研 究プログラムとしてはさっぱり広まっておらず先の見込みは薄い。さらに身体化論者の中にはすべてを感覚運動で統合できるという人もいるが、その大口にふさ わしい妥当な理論を見たことは未だない。先の批判論文にも見受けられるが、認知モデルに生物学的な洞察を取り入れるべきだと言う人もいるが、それがどんな ものなのかむしろこっちが教えてもらいたいぐらいだ(マーの計算論での古典的議論でも読み直してください)。特に高次認知の研究では、古典的計算主義の時 代にはまだしも直観的に理解しやすい論理や確率で認知モデルを構築していたのでまだ問題は少なかったが、ベイジアンによる確率論となると解釈が難しくてど うすれば認知モデルとしてふさわしいのか自体がよく分からない。例えば、脳がマルコフ連鎖モンテカルロ法みたいなサンプリングをしているという見解もある が、どうすればそれが検証されたことになるかのも私にはよく分からない。正直なところ最近は、もしかして高次認知に認知モデルが本当に必要かさえ疑ってし まう。
1540632719 日本の奇妙なところは、一方で自己責任論で騒ぐ人たちは多いのに、政府による民間への介入を批判するようなリバタ リアンな見解では大して騒がれないことである。要するに、単なる感情論で騒いでるだけであって、一貫した思想になど全く基づいていない事だ。まぁ、ネット で馬鹿な無知が目立ち易いのは今に始まった話でもないが…
日本がこんなアホらしい事態になる原因のひとつは、そもそも社会の制度やしくみについて その理由や議論をまともに教えられたことも考えたこともない人達で日本がいっぱいだからだ。日本では権力分立のような基本的な議論さえ適切な場面でさっぱ り言及されないことには驚くしかない。まぁ、もし本気でそれを知って考えたら、例えば日本の刑事司法がとんでもない前提に立った頭のおかしい制度であると いったもう頭を抱え込むしかない現実を知ることになるので都合が悪いのだろう。
自己責任論で騒ぐような事態になったときは、それを頭から否定する のでなく、なぜなのかをきちんと説明するべきだが、そういうことはもっと広く行われる必要がある。まぁ、(政府や政府家にだけでなく)マスメディアや教育 機関にとっても都合の悪い議論も多いかもしれないが……
1540463590 記事の結論にもともと書いてた文章
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### 最後に本当の戯言
ベイジアンの隆盛や ニューラルネットワークの発展は、統計的な技術の重要性が上がっていると同時に、そもそもこれまでの平均と線形を中心とした統計観からの転換をも示してい る。これまでの時代は(技術的に扱いやすい)平均性への反発として多様性が称賛されたりもしたが、そもそも統計的な技術自体が多様性を扱えるようになりつ つある。その点では、トランプ大統領のような反動的な政治家の隆盛も、こうした時代の転換期だから起こっているのかもしれない。しかし、そこで起こってい る混乱というのは実は技術の発展によって案外と解決可能なものかもしれない。だが、本当の問題はその先にあるような気もするのだが、(技術系の人は大抵は 楽天的だし、人文社会系の人は科学や技術に不勉強だしで)そうした議論をできる人が少ないことには危惧を抱いている。
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話がでかくなってきてどう話を締めればいいか分からなくなって削除
1540379201 Leeの論文を見つける前に書いた文章
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ここから先はある程度の知識がないと分かりにくい ことを書くので、自信のない人はこの段落は読み飛ばしてください。認知モデルとはないか?というは話は「高次認知研究におけるベイズ的アプローチ」の終わ りにも触れられいるが、これは真面目に考えると面倒な話なのでそこは避けます。そこでここではベイズ統計モデリングについて、私が個人的に考えたことに触 れます。ベイズ統計モデリングとは何か?を説明するには私はまだ勉強不足なので避けますが、「心理学におけるベイズ統計モデリング」の終わりでも触れられ ているが、ベイズ統計モデリングは構造方程式と似ているとされているが、そう考えるとベイズ統計モデリングとは構造方程式の改良版として捉えることもでき るかもしれない。
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この後で「社会科学における因果推論の可能性」によって構造方程式による因果推論に触れて、Goldthope による因果生成メカニズムからHedstromの分析社会学へと進み、それが認知モデルと関わりを持っている…と議論を進めようとしたが、ベイズ統計モデ リングと構造方程式の関係がよく分かっていないことに気づいて、この方向性は諦めた。だって、この流れだとベイズ統計モデリングでも因果推論できるかも… となってしまうが、そんな事実は調べても出てこない。分析社会学については記事を書く計画が元からあった(認知科学とは全く無関係でもない)が、やっと消 化できると思ったらやっぱり無理だった。
1540206180 もともと記事に入っていた文章
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とりあえずは軽いところから触れよう。まず、一方のアプ ローチに合理的(rational)と名付けているが、これは一般的にTenenbaumらの研究を指して言われることも多いのでややこしい。なので、以 下では最適(optical)の方の用語だけを使うことにするが、実のところそれにしても違和感がある。
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Tenenbaumらの論文にopticalって言葉入ってるじゃん…で削除
1539772745 >>
例えば、視線を対象に合わせる方法には、すべてのケースに妥当する全称命題の推論が含ま れている。これまでの関連する経験が「大前提」となり、最新の知覚が「小前提」となり、当該の場所に見る対象が存在しているという「結論」が下されてい る、とヘルムホルツは言う(NE,360)。このように現在の感覚と過去の経験を照合して、現在の外界の状態を推定するところに無意識的な推論があるとい う。
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福田覚「ゲーテとヘルムホルツ」p.64より引用

1539600176 クラークやフリストンらのフリーエネルギー原理の関連論文は読んでいるけれど、いまいちピンと来ない。その原因は なによりactive inferenceというキーワードの意味が曖昧で良く分からない。だんだんアフォーダンスやオートポイエーシスと同じ曖昧派の仲間じゃないかという疑惑 が湧いてきた。フリストンの研究の流れは(元々脳イメージング研究に携わっていたが)機能局在論を疑う認知存在論から感覚運動的統合を提唱し、さらに予測 符号化を通ってフリーエネルギー原理へ至っている。こうした流れを見るとアンディ・クラークがフリストンを好むのも分かるのだが、どうも彼らの理論は、明 確に数理化された予測符号化と比べるとものすごく曖昧で、もはや科学だか哲学だか私にはよく分からない。
これに比べたら、まだあまり知られていな いけれど予測符号化と表象主義についての議論の方が科学的にも哲学的にもずっと面白い。ただ個人的には面白いと思っているけれど、まだ進行中の議論感が強 いので紹介はしにくい。最大の問題は、生成モデルというのがキーワードになるのだけれど、記事に書くにはまだ理解が足りない。生成モデルは基本的に数理的 な用語なので曖昧さはないが、いざ説明するとなると自信が持てない。簡単に言うと、生成モデルが(構造的)表象である…と言い切っていいのかどうか確信が 持てない。もっと遠回りに説明したほうがいいのかもしれないし、まだよく分かっていない。ここを通過してしまえば、話は一気に広がって面白くなるのだが、 まだその手前がもやもやとしてまだ曇っている。他にネタがないわけじゃない(例えば家畜動物の認知研究)けど、どうも書こうとする気が起きない。まぁ、別 にブログもここもただの趣味なので無理にやる必要は全くないのだが。
1539422435 ブログは長らくやっているが、認知科学の本当の魅力的だと私が思っている部分は、他の人には説明するには地味で分 かりにくいのでブログでもほとんど書いたことがない。最も地味な話は心理学実験の洗練化(例えば、心の理論を調べ方とか、ピアジェの理論への反駁も面白 い)だが、これは下手すると日本の心理学者でさえよく分かってない人が多いかもしれないので、素人向けに何か書く以前の段階の以前でただただ頭が痛くな る。しかし、もっと認知科学の基礎的な部分でさえ説明するのはとても面倒くさい。認知革命の話だって、まずは行動主義の説明をしないといけないが、普通の 人はそもそも行動主義を全く知らないのでまずはその科学的意義から説明する必要がある。行動主義の意義が分からないと科学的心理学そのものが理解できない し、なぜ認知革命が起こったのかも分からない。認知革命中でも、イメージ命題論争があるけれど、これまた説明が困難。心的表象が認められたこと自体が革命 の成果だが、それがどのような形態かが問題だった。しかも心的回転は認知革命の説明でもよく挙げられる心理学実験な上に、脳イメージング研究によって論争 に大展開が生じたこともあり、重要性という点では争う余地はない。その脳イメージング研究そのものについてもその意義を正しく理解するには認知科学の展開 を知っている必要がある。脳の機能については神経心理学の成果も既にあったし、侵入的な認知神経科学だって既にあった。生きている脳を調べられることがい かなる意義を持っていたのかは、その表面的なブームからは伺うことはとてもできなかった。進化心理学のどこが衝撃的だったのか(特に三枚カード問題の解 釈)もどこまで正しく理解されてるのかも正直怪しい。
私が(当初から)認知科学の魅力だと感じている科学的な側面は説明できたと思えた試しは未だにない。
1539252649 現代思想的な思弁的実在論と認知科学の主流に対抗する反表象主義とに一見すると全く共通点はないように見える。し かし、ポスト脱構築の時代における絶対的領域の確保という点では似ている所がある。思弁的実在論とはいかなる経験的領域によっても取り乱されない絶対領域 を確保しようとする試みであると言える、たとえそこがいかなる生も拒む絶滅領域であろうと構わないかのような…。こうした思弁的実在論の不毛さは反表象主 義とは何の接点もないかに思える。しかし、私達と世界との関わりをいかなる形でも(表象にさえも)邪魔されない直接性を認めている点では、反表象主義は別 の意味で絶対領域の確保を目指しているようにも見える。そしてこうした反表象主義の側面は現代思想的な新しい唯物論とも共通点を持っている。反世界と直世 界とで方向性は真反対だが、絶対的な領域を確保しておきたいという動機は似ている。だが、いかなる経験にも抗することや(進化心理学とは対照的に)生態学 的に環境とべったりくっついていることの想定は、有限なる人間には危険なものでしかない。結局の所、ヘーゲルをネガティブに読む思弁的実在論(否定神学 的!)かポジティブに読む反表象主義(絶対知?)かの違いでしかないように見える。歴史的に遡ると、思弁的実在論はフランス現代思想に遡れるが、反表象主 義についてはその流れがひと繋がりでないせいもあってその歴史的流れが描かれたことはない。とはいえ、どちらも実はハイデガーに共通の源泉があるのは面白 い。
1539169035 またまたネットで見つけた、認知心理学の名称者として有名な心理学者ナイサーについての日本の学者の書いた追悼文 を読んだ。自分の知らない事実が書いてあったりして面白かったのだが、あらためて認知科学の歴史って未だに知られてないんだな〜と思った。社会生物学の歴 史には「社会生物学論争史」という名著があるのに、認知科学の歴史にはあまりめぼしいものがない。あえて言うとハーワード・ガードナーの本があったけど、 もういい加減に古すぎる。認知科学の盛んな英語圏でも事情が変わらないのだが、おそらくその理由はそもそも認知科学の歴史があまりに錯綜しているせいだろ う。ナイサーへの追悼文を読んで、改めて認知科学(特に認知心理学)の誕生の一端が意味の復興にあったのだと思いだした。当時の心理学にあったのは、一方 にあるのが科学的ではあるが意味のかけらもない行動主義で、他方では意味に溢れたマズローの人間性心理学だった中で、意味を扱う科学が生み出されたのだ。 ジョージ・ミラーのマジカルナンバー論文も、記憶容量が7であることに注目されがちで、それが反駁された(?)とかで喜んでた最近の日本の心理学者がいて 冷たい目で見ていたが、本当に大事なのは記憶にチャンクという意味の単位を提唱したことなのだ。それ以前は記憶研究は無意味綴りを使っていたのとは対照的 だったのだ。他に当時の記憶研究で重要なのだとバートレットとかもいる。ただ、その後の流れでこうした意味の復興の側面が忘れ去られていった部分は否め ず、後々に認知革命の立役者の一人であるジェローム・ブルーナーが「Acts of meaning」という本を書くようになるのもこうした流れの中で起きたのだ。この話を本気で書くと相当に長くならざるえないが、これでさえ認知科学の歴 史における一流れでしかないのがややこしい。なんで認知科学史の研究者がろくにいないのか謎でしかない!
1538564329 言語進化については本気で書くのは面倒なのでここで軽く書いてスッキリする。言語進化の有名な説としては、コミュ ニケーション説・思考説・歌起源説などがある。これらは順に適応説・突然変異説・性淘汰説と結びついている。コミュニケーション説については人以外の動物 も情報伝達はしているし、そもそもコミュニケーションだけではなぜこんなに複雑に分節化した言語が生じたのかは説明できない。歌起源説は性淘汰説と結びつ けやすいが、孔雀の例を見ても分かるように性淘汰で生じた形態は性差が大きく出るものだが、言語能力には性差が少しはあるが、性淘汰で生じたというには能 力の差が小さすぎる。結局現時点で説得力の点で残るのはミニマリスト(チョムスキー派)による突然変異説ぐらいだな〜
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ラジオでも聞いたしネット記事でも見たけど、人工知能が人の余暇を増やすという見解があるらしい。人工知 能が人の職を奪うの次は、今度は人の余暇を増やすだと…!人工知能が仕事の効率を上げるのは確かかもしれないが、人工知能に限らず技術による効率の上昇は 必ずしも余暇を増やすわけではない。現に昔と今を比較する手もあるが、単に市場原理を見るだけでも良い。技術による効率の上昇によって、人の余暇が増える のか人の労働の価値が下がる(よって余暇は増えない)のかは市場における他の条件との兼ね合いで決まるのであって、一意に定まる訳ではない。なんで脅威論 の次はユートピア説と次々極端な説が出るかね〜もうちょっと頭使ってくれ!
1538304862 予測符号化と観念論について、デカルト主義からカント主義へという形で記事を書こうと予定していたのだが、いろい ろと文献を読んで調べているうちに、命題的構造とは異なるもう一つの(alternativeな)表象主義を中心にして思ったよりも話が広がってきていっ て、とても現段階では記事を書けそうになくなってしまった。これに比べたらenactivistの(全面的)反表象主義についてはいくらでも悪口を書け る、てか前回ここに書いたのも実質そういうの、だがこんな研究プログラムとして見込みのない思想は放っておいても消え去るだけだから付き合うのは虚しいだ けだ。古典的計算主義は既に十分に批判されたし、表象主義であっても力学的(ダイナミカル)な考え方は反映できる(Van Gelderでさえそこまで強い反表象主義ではない)し、(認知科学はメカニズム的説明を目指しているが)反表象主義のメカニズム的説明への強烈な反発も イマイチ理解できない。身体化論者でもClarkは(昔から)そこまでの強い反表象主義ではないように、身体化にとっても反表象主義は必須ではない。それ どころかenactivismにとっても、反表象主義には異様にこだわるのに、ヴァレラもしていた進化論についての話はほとんどしないとか、なんか偏って ないか?……と反表象主義の悪口はいくらでも書ける!
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実は一時期マルクス主義の哲学について勉強したことがあるのだが、4E認知の急進派である enactivism(面倒なのでエナクション派)はどことなくマルクス主義の哲学に似ている。マルクス主義の哲学と言っても、初期マルクスの影響からの ヒューマニズムやアルチュセールによる構造主義などが流行ったこともあったが、これらはあくまで派生的な流行であり、主流の考え方はそうではない。
(隆 盛当時の)主流のマルクス主義の哲学的特徴は二つある。まずはへーゲル批判から来た観念論批判。要するに「世界を解釈するのではなく世界を変える」のス ローガンのもとでヘーゲル的観念論が批判されていた。しかしどうも観念論を議論によって批判すると言うより、頭から観念論は間違っていると否定する傾向が 強かった(イデオロギー!)。エナクション派も観念論を批判しているが、その内実は観念論を頭から否定しているだけで、批判のための有効な議論は特に見ら れない。こうした他人を説得する気のない盲目的な決めつけは頭が固いようにしか見えない。実際にマルクス主義はこうした方面で後世に残る遺産を何も残して いない。おそらくこのままでは二の舞を踏むことになるだろう。
もう一つの特徴はマルクスの労働説から来る活動至上主義である。これは現在では活動 理論として残っているが、この源はロシア時代のマルクス主義者レオンチェフだ。エナクション派の反表象主義(場合によっては反計算主義)はその心的なもの の身体的活動への還元から来ている。最近の私はこれをダイナミカルな行動主義と呼んでいる(そして行動主義の欠点をすべて受け継いでいる)。実際にマルク ス主義ではパブロフの条件づけが教条的に重視されたことがある。そこにおける身体や環境の重視はとても(マルクス主義的な意味で)唯物論的でもある。この 方向性は近年に現れた思想である新しい唯物論とも共有する注目すべき点ではあるが、反表象主義や反計算主義のような強い前提は科学的には生産性が低い。こ れはブログに書く予定もあるが、最近注目の表象主義も昔のような古典的計算主義でのものとは異なる。急進的であることを標榜するエナクション派は一見新し いように見えて実はそうでもない。
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どうもこのはてなハイクは言語学の人も読んでるっぽいので、ブログ記事にはできない程度の単なる思いつき を書きます。最近は構文文法にも興味を持っていて、ネットで論文を調べたこともある。しかし、だいたい日本語の論文でも英語の分析ばっかりでしかもオリジ ナル感のないものばかりだ。私は西村義樹の影響で日本語でも構文的分析が有効なことは知っているので、もったいないなとは感じる。とはいえ、日本語は構文 の単位が英語に比べると分かりにくい…と言うのはある。私が知っているものだと、「赤く塗る」構文・「息子に死なれた」構文・「地図を頼りに」構文ぐらい しか分析を読んだことがない。と、ここまでが私が経験した事実の話だ。
ここからは私が思いついた話だ。日本語の構文というのは短めの文型という形 を取りやすい。英語と違って二重目的語のような形を取れないからそうなりがちだ。つまり助詞が重要な役割を果たしがちに思える。そこで人の発達を考える と、子供の頃は助詞を略した文を発しがちに思える。…なんてことを考えるうちに不思議に思った事例が出てきた。「学校に行く」は普通の文だが、これを疑問 文にすると「学校に行くの?」になる。そこでここから助詞を抜くと、「学校行く」と「学校行くの?」になるが、前者の「学校行く」は子供が口にするような 片言感があるが、後者の「学校行くの?」は大人が口にしてもあまり不自然には感じない。つまり、助詞を抜いたときに文の容認度に非対称的な変化が生じる気 がする。これは私の直観が偏っているのか、何か原理が働いているのか、どっちかよく分からない。面倒なので私の直観が正しい前提で話を進める。
「あ いつは学校に行った」から助詞全てを外すと「あいつ学校行った」は片言感があるが「あいつ学校行ったか?」は不自然さが少ない。もしかしたら動詞「行く」 には二重目的語のようなスロットがあるのでは?と仮定してみる。「近道で学校に行ったか?」から助詞を外すと「近道学校行った」で片言感は変わらないが、 だがそのまま疑問文にしても「近道学校行ったか?」で不自然感半端ない。しかし、「近道で学校行ったか?」は不自然ではない上に、「学校近道で行った か?」とかき混ぜても不自然さはあまり下がらない。つまり動詞「行く」には主語(行為主)と目的語(場所)のスロットが初めからあるので助詞の省略が許さ れるが、経路である「近道で」は動詞の単なる形容に当たるので助詞の省略が許されない。
実は助詞「で」の問題である可能性もあるので、言い換えて みる。「学校に近道を行った」は怪しいが通じなくはないと思うが、「で」を「を」に変えた以外は同じ要素からなる文だ。助詞全省略は相変わらず無理だが、 それ以外は事情が違う。「近道を行った」では助詞抜き疑問の「近道行ったか?」はそんなに不自然ではない。「学校に近道行ったか?」は不自然だが、「学校 近道を行ったか?」は怪しいのだが通じなくもない。つまり助詞だけの問題ではないとは分かる。ただ今度はそもそも元の文を「近道を学校に行った」とかき混 ぜると不自然になり、助詞の省略以前の問題だ。もしかして「学校に近道を行った」は構文なのかもしれない??
以上、単なる思いつきの妄想なので真に受けすぎないように!
1537604580 宮台真司が以前から言っている「最近の人は感情が劣化してる論」については、一体どこにそんな証拠があるんだよ! と長らく思っていたが、この前のラジオではとうとうそれが認知心理学に基づいているとか言い出しやがった。私は大学は心理学出身で学生時代に認知科学に興 味を持ってから二十年以上経つが、今でもネットで手に入る新しい文献はよく読んでいて、流行や潮流にはまあまあの度合いでついて行けているつもりだ。その 私が知らないような認知心理学の成果ってなんだよ!あったとしてもどんだけマイナーな成果なんだよ!だいたいそんな研究成果(最近の人の傾向)は認知心理 学のような科学的心理学よりも、もっと臨床寄りの研究の成果のはずだし、それなら自分が知らないのも仕方ないが、そうではないというのか?もしかして(お そらく特に道徳心理学辺りの)二重過程説の成果(素早い直観的判断には感情が関わっている)を勘違いしているのかもしれない。もちろん二重過程説は誰にで も当てはまる一般化された説であって特定の時代の人だけに当てはまるものではない。
まぁ、どうであれ「感情の劣化」論は相変わらず根拠のない謎の説のままだ。
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最近になって突然このはてなハイクのフォロワーが増えるようになった。まぁ、ここのフォロワーが何人いよ うが、ここを読んでるのがどれくらいるのかなんて初めから分からないのだが、少ないことだけは確かだ。てか、読者が少ないことを前提とした公開なのだが。 今はここはブログ向けに書き始めた記事から出す気が失せたものや本体のブログに書くまでもない感想レベルのものをそのまま捨てるのがもったいないからここ に出してるだけだが。以前と違ってブログもうかつなものが出しにくいので基準を厳しくせざるを得ず、ちょっと危ないかなと感じたものは読者も少なくて炎上 もしにくいここに出すことにしている。それでも、本体ブログでは(古くはクオリア論以来)別に論争の余地もない基礎知識レベルのものに限って文句を言い出 すバカな反応は相変わらず絶えてはいない。まぁ、特に認知科学や分析哲学に関しては日本はかなりのガラパコス状態だからと諦めてはいるが。
1536317631 世界的ベストセラーの「サピエンス大全」については何か言ったほうがいいのかは迷っている。話題になっているとき に手にとって読み始めたことはあるが、その内容に幻滅した投げ出した覚えがある。その後TED講義で著者の対談を見てもガッカリしたとはいえ、私にはこの 本について堂々と語れる資格はない(かといってその本を読み切る気も起きない)。「サピエンス大全」については基本的にshorebirdさんのブログに ある書評による評価が妥当だと思う。要するに読み物としては面白いかもしれないけれど、内容的には科学的根拠が薄い所が目立つ…といったところだろうか。 おそらくこの本が売れたのは政治的含意からだろうが、タイトルからは科学書のように思われがちなのに科学的根拠は薄いのには困ってしまう。まぁ、私のよう な認知科学オタクからすると、(認知科学で既に使われている)認知革命という言葉を全く別の意味で勝手に使われたのが一番ムカつく。


1535108856 *二十一世紀に起こった認知科学の微妙な変容
現在の日本での認知科学理解は国際的な視点からすると偏って いる。まず日本では認知科学がマイナーまたは既に終わった学問だと思っている人もいるが、そう見えるのは日本の特殊事情であって国際的にはそうではない。 欧米には認知科学に関係した研究者は今でもたくさんいるし、認知科学関連の(〜センターみたいな)研究組織も多くある。それ以前に日本では、そもそも認知 科学は学際領域であって、認知科学の研究に関わっているのは心理学者なり言語学者なりといった個々の分野の専門家であって、認知科学者と呼ばれるのは既存 の分野に分類し難い例外だけだということさえ理解されていない。私の印象では二十世紀までは日本の認知科学はまだ国際事情について行けていた(むしろ先進 的だった)が、二十一世紀になって国際事情にだんだんとあまりついて行けなくなってしまった(代わりに独自事情が強くなった)感じがする。事実、日本には 認知科学の研究組織が極端に少ないし、そもそも認知科学を学べる教育機関もろくにない。それに日本の認知科学は学際分野としての役割もあまり果たしていな い。最近になってやっと日本語で書かれた認知科学入門書が出たが、それを見ても内容が極端に心理学に偏っている。これらは二十一世紀になって「日本の」認 知科学に起こった変化だが、実は国際的に見ても認知科学には微妙な変容が生じている。
**二十世紀までの認知科学の歴史
二十一世紀の話を するまでに、まず二十世紀の認知科学の歴史を振り返ろう。とはいえ、認知科学の歴史は様々な動きが同時並行的に生じた複雑なものなので、ここでは後の議論 のために必要な物凄い大雑把な流れを示すだけに留める(そもそも認知科学史の研究自体がほとんどない)。
最初に確認すべきは認知科学は二十世紀半 ばに成立した比較的新しい学問領域であることだ。その上で(前史は除く)二十世紀の認知科学の歴史には大きく二つの変動が起きている。まずは、1950年 代半ばから1970年代頃までの認知科学の成立期である((この時期にはギブソンやドレイファスによる早期からの批判が既にあったので、この年代分けは目 安以上のものではない))。この頃は後に古典的計算主義と呼ばれるようになる論理を中心にした心の分析や人工知能の設計がなされた時期である。次は、 1970年代後半から1990年代辺りまでが、それまでの研究傾向を古典的認知科学や古典的人工知能と呼んで批判して、コネクショニズムや身体化論といっ た新しいアプローチが次々に本格的に現れた時期である。私が学生だったのはこの時代の末期だったのだが、その頃にそれ以前の認知科学成立期を第一波と呼 び、それ以後の当時までの時代を認知科学に変革を起こした第二波と呼ぶことがよくあった。
ここまでの認知科学の歴史は基礎知識レベルであり、日本で出ている認知科学の書籍にもこの辺りの知識は載っていたりする。この先の時期はまだ現在もその真っ只中なせいもあって語られることはほぼない。時期尚早なことは覚悟の上で自分に書ける範囲のことは書いてみたい。
**認知科学へのアプローチの自然化
二 十一世紀に入ってからの認知科学に起きた最も目立つ変化はそのブームを見れば分かる。欧米では二十一世紀に入ってから進化心理学と認知神経科学のブームが (世間的にも学問的にも)起こった。だが、これらはどちらも認知科学に関連した研究領域であり、こうした認知科学関連のブーム(例えば道徳心理学)はこの 後も幾つか起き、欧米においては認知科学が全く衰えていないことがはっきり分かる。
こうしたブームから見えるのは、認知科学に自然化が起こったこ とである。認知科学に進化論や脳研究の考え方が広く普及したのはその生物学化の一種であり、それはブームを超えて今でも残っている。また実験哲学の隆盛に もみられるように、経験的な証拠に基づく議論が一般にも広がったが、それは方法論的自然主義が広く受け入れられた事を意味している。例えば、道徳心理学は それまでは思弁的に語られがちだった道徳を証拠に基づいて語る動きを作り出した。このように、生物学化や方法論的自然主義のように広い意味での自然化の動 きが二十一世紀の認知科学には起こった。
ちなみに、二十一世紀に入ってから日本でも脳科学のブームがあった。しかし、日本ではその世間的なブーム は学問的な動きを本当の意味で反映していたかは当時の私でも怪しく思っていた。理由は簡単で、その脳科学ブームの源は脳イメージング研究の流行りから起 こったものであったのだが、その認知科学的な源が正しく伝わることはなく、還元主義的な旧態依然とした科学観のもとに受け入れられた感じがした。ちなみ に、進化心理学に関しては日本ではブームが起こった気配自体はほとんどない。
**認知科学に参加する研究者が交代した
こうした二十一世紀 に入って起こったブームによって、認知科学の研究者の層も変わった印象がある。特に生物学化の影響で生物学寄りの参入者が増えたように思われる。新規参入 者がいること自体は結構なのだが、それまでの認知科学の流れをよく知らないままの学者も増えたようだ。当の本人たちはそれで困ったかと言うとそうでもな く、例えば脳イメージング研究ならば心的機能と脳部位の対応関係を見つけるという目的さえわかっていれば良く、あとは技術的および形式的な問題さえクリア すれば論文は書けてしまうところはある。進化心理学も多少の似たり寄ったり(進化論だけ分かってれば認知科学の知識は適当でもなんとかなる)なところは あった。とはいえ、ブームが過ぎるとそうも行かなくなり、最近は(既存の脳イメージングの方法論の行き詰まりから)計算論的神経科学が見直されていたりす る。最近だと、身体化論に新規参入した哲学者が似た境遇かもしれない。まぁ、認知科学に限らず(ラカトシュ的な意味の)研究プログラムに乗っかるだけとい う科学者はいるものだが、残念ながらその状態はそんなに長続きはしない。
この辺りは鋭い人なら気づく可能性はあるが、次の指摘は認知科学を継続し て知っている人でないと気づきにくい事だ。それは二十一世紀に入って認知科学から離脱した研究者も多かったことだ。身体化論が批判する古典的計算主義に 則っていた研究者が認知科学を離れてしまったケースを幾つも見た。古臭い研究者は立ち去ればいいと思っている人には悪いが、その人たちの研究テーマは思考 寄りの高次認知が多かったのだ。古典的計算主義の問題はそれをあれもこれもに過大に広く適用しすぎたことだが、思考は古典的計算主義を採用したからと言っ て文句を言われるほどの領域ではなかった。とはいえ、それらを研究テーマにしていた時節に長けた優れた研究者はむしろ科学というより教育寄りの学習科学と いう新規の領域へ移動してしまった。他に科学としての認知科学から離れてしまった人たちには、心の文化的な研究をしていた人たち(特に人類学者)も多く含 まれていた。心の文化的な研究は第二波の中で台頭してきたアプローチだが、その後の生物学に偏った自然化の流れには乗れなかった感じがする(残れたのは比 較文化的な心理研究の人ぐらいか?)。科学は正しさだけで進むものではない(むしろ生産性が重視される)という事実は心に染みる事実である。

1532951664 *認知科学についての勘違いを考える
人工知能や身体化論のような認知科学関連のブームっぽい話は、私のよ うなスレっからしの認知科学マニアには必ずしも面白いものでもない。面白く感じられない理由の一つは(既に知識があるので)新しさがないことでもあるが、 そのおかげで関連した記事そのものは書きやすい。私が認知科学のテーマで個人的に面白く感じているものは幾つかあるが、私個人が英語の文献で読んでキャッ キャ喜んでいるものなので、記事としてまとめるのは面倒くさい((二重過程説でさえ実は奥深い))。という訳で、特に調べなくても書ける…これぐらい分 かってろよ!という認知科学の意義について書きたい。
**認知科学は学際分野であって、それだけで独立した研究分野とはちょっと違う
ある 時、日本で行われた認知科学の講演についての記事を読んでいたら、演者が聴衆に向かってこの中に認知科学者はいますか?と手を挙げさせたという話を読ん だ。そこでは手を上げた人が少なくてがっかりみたいな話だったと思うが、私はそれ以前の段階でがっかりするしかなかった。そう、節のタイトルにもある通 り、認知科学は学際分野であって、その研究に関わっているのは個々の分野の専門家…心理学者や言語学者や神経科学者や工学者であって、必ずしも認知科学者 と呼ばれている訳ではない。せいぜいその人の研究が個々の専門分野にうまく当てはまらないときに認知科学者と呼ばれることはあるが、そう呼ばれる研究者だ けで認知科学が成り立っている訳ではない(だとしたら認知科学はもっと小規模なマイナーな研究分野でしかない)。日本では、比較的に認知科学についての知 識のある人でさえそんな奇妙な(勘違いに由来する)質問をしていること自体が私にはショックだった。
**認知科学の重要性はその名称や固有の学会にではなく、それが起こした科学革命にある
あ る時、ラジオを聞いていたらよくマスメディアに出ている有名な脳科学者が話をしていた。私自身はその人のことは、それまでマスメディアによく出ていた脳科 学者に比べると話がまともなので評価は高かった。しかし、その人が認知科学に言及したときに基本的な説明(認知神経科学は認知科学である)には納得した が、認知科学が既に過去のものだと言っていたのを聞いてムッとしてしまった。二十一世紀に入ってからどれだけ認知科学に関連したブームが起こったと思って いるんだ?しかもその一つは認知神経科学(脳イメージング研究)なんだから言ってることが矛盾してないか?と思って聞いていたら、今度は脳の進化について 語られるようになったのは脳科学の影響だ的なことを言い出して、この人は進化心理学のブームを知らないのだろうか?と疑問しかわかなかった。その人はとて も頭のいい人であると知っていたが、そんな人でも専門外では適当なことを言うんだなとガッカリしてしまった。
まぁ、日本は認知科学については(国 際事情からかけ離れた)特殊な事情があってツッコミどころは幾らもある((例えば、認知神経科学は海外では心理学者も多く研究に関わっているが、日本では なぜか認知神経科学と心理学を全くの別物と考えている人は多い))。しかしここでは細かい指摘は無視して核心についてだけ触れる。認知科学の重要性は心の 研究についての考え方や研究方法についての革命的な変革にあるのであって、認知科学と言う名称や学会はそれに比べたら大して重要ではない(ただし認知科学 が学際的である意義はここに隠されている)。
認知科学の起こした科学革命について本気で語ると切りがないので、ここでは計算論についてだけ触れ る。計算論とは心を計算によってモデル化する試みの事だ。計算論的神経科学そのものは以前からあったが、脳イメージング研究のブームを経た後に近年になっ て見直されているところがある。更に最近は計算論的精神医学という新しい研究領域も現れている。これ以上は説明しないが、こうした計算論の試みは広がりつ つあるが、必ずしも認知科学と直接的に結びついている訳ではない。大事なのは計算論と言った認知科学的な考え方や研究法が広く受け入れられていることであ り、認知科学そのものはもはや中心にある必要はない。認知科学は異分野の研究者が集うサロン程度の役割でいいのではないかと思う。革命はそれが本当に成功 したと言えるにはその成果が当たり前になることになるのであって、認知科学に固執することに意義があるとは思えない。
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これから出す予定の記事に付けた削除した注…削除理由は読めば何となく分かります
注内のその記事ってのはこれです→http://d.hatena.ne.jp/deepbluedragon/15000101/p1#c
((ち なみに、その記事で何の返答もせずに削除もしていないコメントがあるが、あれはわざと晒している。そこまでのコメント欄を読んだ気配がない上に、本文と注 を分けてもいない、ただの感情的な反応だ。言葉遣いが気になったのは別に構わないが、せめてもうちょっと(脊髄反射的でない)適切な指摘をしてくださ い。……ところで、最近になって構文化経由で興味を持って、認知言語学についてあらためてネットで調べてみた。すると日本語で書かれた認知言語学の論文の ほとんどが(どこかから借りてきた分析にアレンジを加えた)英語の分析ばっかりで、英語以外の言語どころか日本語の分析さえほとんど見かけない。日本では (生成文法と違って)認知言語学を普遍理論だと信じてさえいない人だらけであることに呆れてしまった。今だったらバカという言い方はやめて怠惰と言い換え てもいいかもしれない。まあ(又聞きで悪いが)ラネカーでさえ翻訳された本で認知言語学は直感的には理解しやすいが興味深い分析をするのは難しいみたいな ことを言っているらしいので、仕方ないのかもしれない(と弁解の余地は与えておこう)。))
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認知科学は私を虜にした90年代後半ほどの豊かさが失われ、21世紀に入ってからは20世紀末期に蒔かれた種が育ったが、いい加減もう遺産を食いつぶした感も強く、もはや良くも悪くも認知科学は普通科学になってしまった。私はしては趣味として嗜む域にしか関わっていない。
最 近は現代思想的な話を調べているが、思弁的実在論についてはブログ記事でも既に触れている。ここのところはもうひとつの潮流である新しい唯物論について調 べている。私の印象では思弁的実在論には先の可能性はないが、新しい唯物論はこれからに展開によってはより面白くなりうると思っている。
西山賢一 「量子論の世界像と経営理論への応用」では、バラッドの新しい唯物論が紹介されているが、そこで状況的認知論にも触れられている。ラトゥールやバラッドの 新しい唯物論は人間と非人間の対称性をテーゼにあげているので、本当は心を持つものを扱う認知科学とは簡単には結びつかない。
西川純司「統治性研 究はインフラにいかにアプローチできるか?」には新しい唯物論の別の側面(Lemke, Thomas“New Materialisms")が紹介されている。それはフーコーの生権力からの発展であり、代表的な研究者にJane Bennettがいる。生権力論は人の環境の物質性に注目する点で、状況的認知論との相性は良い。だが人間と非人間の対称性が守られてはいない。しかし、 人間と非人間の対称性をうたうアクターネットワーク理論には、生物の持つ振る舞いの複雑さを扱えないという批判もあった。エージェント性を物にまで広げる ことには賛同するが、対称性を強調することでそもそもの振る舞いの複雑さを取り入れられないのは問題だ。
まずはメイヤスーやブラシエに代表される 先のない思弁的実在論には見切りをつけて、新しい唯物論に目的を定めること。そして、バラッド的唯物論とフーコー的唯物論を調和させること。そして、ここ では触れなかったが、20世紀後半に科学革命を起こした社会生物学と認知科学の成果を振る舞いの複雑さを取り入れるために唯物論に取り込むこと。アン ディ・クラークもベイジアンにコミットしているのだから無理はないはず。
(命題的)思考はダメだけど物理数学やコネクショニズムはOKというメイ ヤスーやブラシエの謎の相関主義批判とはおさらばしよう。(物質性を強調するためにも)思考や意識の価値は引き下げられるべきだけれど、否定まで行くのは 行き過ぎだ。(社会生物学と認知科学の要である)計算論と唯物論を結びつければ新しい地平が見えてくるかもしれない(という私の妄想)。
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日本語の認知科学の学術誌のバックナンバーがネットで公開されていて、近年の記事を眺めていた。ある講演 か何かで日本の学者が日本の聴衆に対してここに認知科学者はいますか?と聞いてその少なさにがっくりしたという記事を見かけたのだが、こんな認識だから日 本の認知科学は党派心に囚われて欧米に後れを取っているだろ!と思ってしまった。(欧米では)認知科学とは学際的領域でありそこに関わっているのは個々の 様々な専門家であって、いわゆる認知科学者なる者ばかりではない。というか、認知科学に関わるのはあくまで心理学者や言語学者や神経科学者といった個々の 専門家であって、研究内容が既存の専門分野にどうしても当てはまらない時に半ば仕方なしに認知科学者と呼ばれるに過ぎない。日本では一人学際をすることが 学際的だと思われている節があるが、もちろんこれは間違っている。認知科学という独立した学問領域があると思い込んでいる日本は、異なる専門家同士が学際 的に交流することが少ない。認知科学から離れた一般論としても、日本は異なる学問間の交流も移動も困難だ。
ある脳科学者がラジオで認知科学をほそ ぼそと続いていると公言していたが、それは日本の状況を見るからそう思えるのであって、欧米では認知科学は少なくともそれなりには盛んだ。以前ほど科学的 発見がなくなっているとしても、それは認知科学が革命期を経て普通科学になったことを意味しているに過ぎない。だいたい認知科学がほそぼそだとしたら、人 文社会科学は死んでるも同然じゃないか。要するに、その脳科学者の無知と傲慢からの発言でしかなかったのだ。
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"「Neuroscience Needs Behavior:Correcting a Reductionist Bias」を読む"からの削除部分。例によって面倒を避けるため。しかし思いを形に出来た時点で満足とも言える→
個 人的にはティンバーゲンの究極要因と近接要因について((ちなみに、この二要因には優越関係は全く存在しない。時々究極要因の方が優れているかのような口 ぶりの人がいる(究極という語感からの連想?)のは残念です。お前らのような奴らがいるからフォーダーのような進化論批判(もちろん正しくない)が出てく るでしょ!ちなみに私が論じたかったのはこれではない))とかしたい話がない訳ではないが、当の論文とは関係なくなるのでやめておきます。でも、結論の多 元論的神経科学ってのはちょっと大風呂敷広げすぎかなぁ〜とは思う。
まぁ、こう考えるようになった原因の一つが日本の認知科学が単なる好き嫌い ((例えば身体化論や認知言語学によく見られた))で展開していて欧米での展開からかけ離れているのを目前にしてうんざりしたせいもある((例えば比較的 最近に日本で出た認知科学の入門書には二十一世紀に入ってからの認知科学の大きな展開(例えば認知神経科学・進化心理学・言語進化・道徳心理学などのブー ム)がほとんど含まれていない))
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以下は最近書いた記事の注から省いた箇所。理由は万一の本人たちに気づかれる面倒を懸念して
既に 2つのrealismという私からすると単なる基礎知識に過ぎない話で騒がれたことがあってうんざりした経験がある。そのくせ明らかに間違った反実在論の 用法をしている論文(著者は高い確率で彼らの知り合い)があったがそっちでは騒いでる気配はない。炎上をするひとにとって大事なのは(表向きの目的であ る)正しさや真実ではなく都合よく叩ける対象を敵とみなしてすっきるすることでしかない。ちなみに、こうした注での私のネットへの愚痴も二重過程説を介し て方法論的自然主義の話と結びついているのだが、そこまでの話を書くことになるかはまだ未定
1481700855 日本の学者が欧米に比べてレベルが低いのは国際的な競争にさらされていない人文社会科学に多いように思う。日本の 心理学でも行動と認知を(排他的に)分けるという日本でしか通用しない分類を平気でする学者が未だにいるのに驚いた。そういうのをみてると、それでいいと 思っているなら欧米に行ってそれを発表してみろ!と言いたくなる。はっきりいって通用するわけがない。もちろん欧米の説が全て正しい訳ではないが、日本の 学者の問題はそれ以前の基礎レベルの問題でありお話にならない。
1481700839 更に困るのは欧米の著名な学者の学説を批判するのは結構だが、その批判する議論がおかしなことが多々見られること である。私の印象では始めに結果ありきで議論をしていて、議論の道筋における論理性がおざなりにされてしまうようだ。最も頭を抱えたのは、自然主義につい ての本で前半の自然主義についての説明はよくできているのに、後半では新しい自然主義が提示されているのだが、どう考えてもその内実は前半で説明されてい る自然主義の説明に当てはまるように思えないことである。日本では分析哲学なのに議論に説得力がないことがあまりに多くこっちはただただ困ってしまう。し かもこれはその学者が若手か中堅か年配かといったことには関係なく見られる。つくづく日本では学者間の批判ネットワークが機能してないんだな!と思い知ら される。
1481700825 日本の学者の書いた分析哲学の本はそれなりに確認しているが頭を抱える機会が多く困っている。何が困るかという と、欧米の学者の説を取り上げてくれるのはいいのだが、その紹介の内容が欧米での標準的な理解とは異なるものを断りもなく平気でしてくるので困ってしま う。もちろん標準的な理解が全て正しい訳ではありえないが、とはいえとりあえずは標準的な説を紹介してからそれを批判するという形をとってくれればよいの だがそれをしてくれない、例えば解釈主義が(心の哲学では)反機能主義であるとしている本が出版されているが、デイヴィッド・ルイスが解釈主義者であると 共に機能主義者であること一つ考えても間違っていることがはっきり分かる。これは最近見つけた論文なのだが、マクダウェルの概念主義についての論文だった のだが始めのうちは面白く読んでいたのだが、終わり頃になってマクダウェルが無意識のうちになら非概念的な内容から概念的内容への変換を認めているかのよ うな記述を見てびっくりした。マクダウェルが非概念的な内容から概念的内容への変換を認めていないことで有名だが、それはエヴァンスへの批判を見れば分か るとおり無意識のうちでの変換さえ認めていない。この記述のせいでその論文の内容はまるまる全て意義が失われてしまった。日本の学者は自らのオリジナリ ティーを示したいがために他人の説について非標準的な(間違った)理解を(何の注釈もなく)平気で書いてくるのは本当に困る。
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*新プラトン主義は果たして哲学なのか?問題を考えてみる
**論証のない思想を哲学と呼んでもいいのか?
新 プラトン主義は古代ローマ末期に生まれた哲学思想であり、その後の西洋において神秘思想を始めとして様々な哲学や思想に影響を与えた。私は哲学に興味が あって、哲学史にもその一環として関心を抱いていた.と言っても、単に知識としての哲学史を知りたいだけなわけではなく、現代にもつながる哲学の考え方を 理解するために哲学史に興味を持ったところがある。その中で、新プラトン主義は後の西洋思想に様々な形で大きな影響を与えたものであり、それを理解するこ とは哲学一般を理解するためにも重要であると考えた。
私が哲学史を理解する上で大事だと持っているのが、単なる思想を知るだけでなくそれを導く論 証を知ることと、その思想が現れた背景(文化や目的)を理解することである。新プラトン主義を理解する上で困ったことは、解説書を読んでも思想を導く論証 (合理的説明)が書かれていることはまずなく、たいていはその階層的な世界観が説明されているだけであることがほとんどであったことである。私自身は何ら かの論証(合理的説明)のない哲学に意義を見出しにくく、それでは哲学と呼ばれるにふさわしくなく単なる一思想でしかないと思う。新プラトン主義は古代 ローマ時代の哲学であるヘレニズム哲学に分類されるが、同じヘレニズム哲学でもエピクロス派であれストア派であれ懐疑主義であれ何らかの合理的な説明が含 まれているのだが、新プラトン主義は単に独特の階層的世界観(知性だの一者だの)を主張しているだけでまともな説明を見いだせない。結構長い間このことに は頭を悩ませていて、新プラトン主義なんて(哲学ではなく)ただの思想でしかないと思おうとしていた。それが最近になって、もしかして新プラトン主義も他 のヘレニズム哲学と同じように哲学として理解できるのではないかと考えるようになった。その理由はどこかで読んだことではなく、私の勝手な思いつきでしか ないが、どうせだから単なる覚書程度の気持ちでその思いつきを書き留めることにした。
**ヘレニズム哲学の背景としての認識論と倫理学の結びつき
まずはじめに確認しておきたいのは、ヘレニズム哲学にはそれ独特である共通の特徴がある。近代から現代に至る哲学では、認識論なり倫理学なりといった各哲学領域は基本的に別々に分かれて論じられている。しかし、ヘレニズム哲学はそうではなかった。
>>
ディオゲネスの発言は、その後のヘレニズム哲学者たちの関心の方向を示すものである。彼らは世界/宇宙(コスモス)の内に住む個人としてみずからを認識し、その生の中でふりかかってくるさまざまな出来事に動揺しないで生きる道を模索したのである。
-「isbn:9784124035193:title」p.177より
<<
ヘ レニズム哲学では真なる世界を知るための認識論や自然学と、良き生き方を提示する倫理学とが、別々ではなくセットになっていた。哲学理論そのものを批判す る古代懐疑主義においても、批判そのものが目的だったわけではなく他の哲学批判を通して高い認識に達することが目的であった。ヘレニズム哲学には正しく世 界を知った知者は正しい生を送れるとする前提があった。現代から見ると認識論や自然学から倫理学を導くのに本当に成功しているのか怪しいところがないわけ ではないが、テキストの不備(というか、まとまったテキストがほぼ残っていない)を考慮に入れてそこは突っ込まないでおく。とりあえず大事なことはヘレニ ズム哲学においては真なる知識と良き生き方とが密接に結びついていると考えられていたことである。
ヘレニズム哲学で真なる世界を知るために重視さ れているのが認識論である。認識論とはいかにして真なることを知ることができるのかを問う哲学領域であり、その伝統は現代にまで続く古いものだ。認識論で 古代から現代まで続く優勢な説として、感覚されたものが真なるものを決めるとする説がある。ストア派はそうした感覚説を採用している。懐疑主義はそうした ストア派の感覚説を批判しているのだが、詳しい説明は概論書(「isbn:9784124035193:title」は適切)に任せる。エピクロス派の場 合はアトム論という自然学説が真なる世界を知るために採用されている。肯定的であれ否定的であれヘレニズム哲学では真なる世界を知るための理論というのが あり、そうした真なる知識が良き生き方を導いてくれるという構成をとっているのが基本だ。
**ヘレニズム哲学の背景としての認識論と倫理学の結びつき
まずはじめに確認しておきたいのは、ヘレニズム哲学にはそれ独特である共通の特徴がある。近代から現代に至る哲学では、認識論なり倫理学なりといった各哲学領域は基本的に別々に分かれて論じられている。しかし、ヘレニズム哲学はそうではなかった。
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ディオゲネスの発言は、その後のヘレニズム哲学者たちの関心の方向を示すものである。彼らは世界/宇宙(コスモス)の内に住む個人としてみずからを認識し、その生の中でふりかかってくるさまざまな出来事に動揺しないで生きる道を模索したのである。
-「isbn:9784124035193:title」p.177より
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ヘ レニズム哲学では真なる世界を知るための認識論や自然学と、良き生き方を提示する倫理学とが、別々ではなくセットになっていた。哲学理論そのものを批判す る古代懐疑主義においても、批判そのものが目的だったわけではなく他の哲学批判を通して高い認識に達することが目的であった。ヘレニズム哲学には正しく世 界を知った知者は正しい生を送れるとする前提があった。現代から見ると認識論や自然ニズム哲学と同列に位置づける
さて新プラトン主義だが、同時代 のヘレニズム哲学と比較すると新プラトン主義には一見するとそうした認識論なり自然学なりがあるように見えない。表面的にはストア派と同じく自然学的なロ ゴスを採用しているようにも見えるが、ストア派ではそうしたロゴスに接近するための認識論があるが、新プラトン主義にはそれがない。単にロゴスというだけ ではアトム論のような内実がないので、そこから倫理学(良き生き方)を導くのは無理がある。新プラトン主義の目的が自己を一者に上昇させることであり、そ れが良き生き方につながる考えれば新プラトン主義に倫理学があるとはいえそうだが、それを支えるのが独自の階層的世界観(一者/知性/魂)であって、他の ヘレニズム哲学のような認識論や自然学ではないように見える。
「isbn:9784000237932:title」を読むと新プラトン主義にも 認識論があるようにも見えるが、以前の記事で書いたようにその辺りの説明はどうも怪しい。その本の「オブジェクト」論文ではストア派や新プラトン主義の感 覚論が論じられているが、その際に現代哲学における知覚の概念論争におけるクワイン的立場とマクダウェル的立場の対立が持ち出されて説明されている。そこ で新プラトン主義は非概念的内容を批判するマクダウェルの立場として説明されている。しかし、新プラトン主義が「感覚器官の受動様態」と「能動的にはたら く魂の力」を分離して、魂が外から与えられた感覚に形相を当てはめるからだとしているとすると、それはマクダウェルの批判する知覚の非概念的内容に概念と いう枠を当てはめる考え方そのものである。マクダウェルは知覚を概念的内容と非概念的内容に分けられることを批判しているが、著者による新プラトン主義の 説明は感覚と形相を分けられるかのようにしか聞こえない点で同じ批判が当てはまる。だいたい新プラトン主義はイデア説を採用しているのだから、感覚に形相 (イデアとほぼ同義)を心の中で当てはめると考えること自体がおかしい。
ここでキーワードとなるのは(他の唯物論的なヘレニズム哲学は採用していない)「イデア」である。新プラトン主義にとってはイデアを知ることが真実を知ることである。問題はどうやってイデアを知ることができるか?である。
**新プラトン主義にあえて認識論を想定してみる
グ ノーシス主義にあえて認識論を想定してみると、いわば現実世界とイデア界との二世界論であり、それらの二世界は前者は悪で後者は善であり、二世界にはつな がりはない。だから、グノーシス主義では感覚できる現実世界はイデアという真実を知る上では邪魔者でしかなく、瞑想のように感覚を遮断してイデアを直接知 るしか方法はない。新プラトン主義はこうした現実世界を悪と見る(安易な)グノーシス主義を批判している。しかし、新プラトン主義でもイデアを知ることが 真実を知ることだとする点ではグノーシス主義と同じ前提に立っているのであって、そこが他の唯物論的なヘレニズム哲学とは異なる。新プラトン主義は感覚で きる現実世界に形相(ほぼイデアと同義)を見いだすための触媒としての役割を認めている点で、感覚できる世界を全否定するグノーシス主義とは異なる(と主 張している)。この場合、形相は概念的な心の中にある枠組みでもないが、かといってイデアを見いだすのに感覚経験が必須としているわけでもないところが現 代的な実念論とも異なる。新プラトン主義も究極的にはイデアを知るのに感覚は必須ではないとする点ではグノーシス主義と大して変わりはない。ただ、新プラ トン主義はこの辺りの微妙な違いを示すために独特の階層的世界観を提示していると言える。
一般的な新プラトン主義の説明は、階層的世界観が全面的 に押し出されてしまうが、それでは新プラトン主義の哲学としての側面が見えてこない。明示されてはいなくとも、新プラトン主義も同時代の他のヘレニズム哲 学と同じ背景を持っていると考えると、その狙いが見えやすくなる。新プラトン主義の階層的世界観はそれ自体が目的なのではなく、真実を知ることが良き生き 方をすることと結びついているというヘレニズム哲学の前提の元に独自の世界観が展開されていると考えないといけない。とはいえ、それが分かっても普遍的イ デアと超越的イデア(善や一)の関係を考えたりすると頭が痛くなってくるところもない訳でもないが、それは当のプラトン自身が持っていた問題でもあるので ここでは突っ込まないでおく。大切なことは新プラトン主義はその独特な世界観に幻惑されがちだが、その背景となる目的が分かるとなぜそのような独自の世界 観を築いたのかも理解できるようになる。つまり、イデアを知るという隠れた認識論を支持するために階層的世界観は考えだされたのだ。にしても、どうやって イデアを知れるかなど具体的な部分で不明瞭なところも多く、納得できるかは別の問題ではあるが。

1368201039 相変わらずカール・シュミットについて知りたくて「isbn:9784623058235」を読んだのだけれど、 あまりにも「ザ・学術書」って感じの本で、学術書としては良い本なんだけど読んでいてそんなに面白くないし印象にも残らない。日本の学者が書いた幾多のク ソ人文書よりはよっぽど良い本なんだけど、堅実すぎて面白みは欠片もない。そもそもこれを読んでも分かるのはドイツを中心としたローカルな政治思想事情で あって、シュミットの思想については概論的な要約以上のことは大して書いてない。地味だけど好きな学術書ってのは幾つかあるけれど、こういう堅実なだけで 印象に残らない本は時間を無駄にしたと素直に怒りづらくて困る(そしてレビューで書くことも特にない)。
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***おまけ
最後に科学的成果を平気で否定する馬鹿論者に次の言葉を送ろう。
>>
科学者にとって重要なのは、「うまく行く」ことであって、自分の操作の結果から得られる哲学的意味を考えることではない。科学者の実験と操作の一つ一つは、何もメタ理論を構成する必要はないのである。
「isbn:477101325x:title」(p.185)より
<<
哲 学が科学的成果を直接に否定できるなどめったにあることではなく、哲学にできるのはせいぜい科学的成果をより適切に解釈することでしかない((逆に、哲学 者が科学に直接に貢献しようとする所を見かけることがあるが、所詮は当の科学者にそうそう敵うはずがない。そうした不遜な考えはむしろ専門家としての科学 者を甘く見てる証拠だと思う))。科学的成果を本当に否定できるのは科学的証拠だけであるが、科学者が科学的成果を不適切に解釈していることはよくあるこ とだ。科学者を専門家として尊重しながらその限界も見据えている人がどれだけいるだろうか。
1367161467
アンディ・クラーク「現れる存在」
isbn:9784757102675:title
身体化論の古典の翻訳としては喜ばしいが、工学色が強いせいか古びた感は拭えない
そ の方面では著名な哲学者による認知科学的な身体化論の代表作。翻訳自体は喜ばしいが、工学の話題が中心なせいか、他の身体化論の古典と比べても古びた感は 拭えない。一番面白いのは付録にある講演だが、これだけではやはり物足りない。決してつまらない本ではないが、素直にはお勧めしにくい。とはいえ内容は悪 くないので評価は甘くつけた。
1990年代はそれまでの古典的な認知科学が批判されて、新しい流れとしての身体化や複雑系が流行った時代だが、そ うした時代の真っ只中に書かれた認知科学の哲学の代表作。とはいえ、自分も10年前に読んでいればまだ感激していただろうが、今となっては今更感はやはり 拭えない。その理由はその後の認知科学の進展のせいもあるが、それ以上にこの著作の話題がロボティクスを中心とした工学的な題材が中心なせいもある。いま さら古典的人工知能を推奨している人など珍しいし、それどころか最近のロボティクスは見た目だけそれっぽく似せてるだけで元々の知能の研究から離れている との批判さえある。今更、古典的人工知能批判とロボティクス推奨を読まされてもしょうがない気もしてくる。
この著作が古くさく感じるのは当時の工 学的な話が中心なせいもあるが、他に科学的に見ても哲学的に見ても物足りなく感じてしまう。まず(工学とは別の)科学的な研究への参照がそれほど多くない 上に大したことも書かれてない。科学的という点なら、これより前に出てた同じく身体化論の古典であるヴァレラら「身体化された心」の方が、そのマニフェス ト的な性格もあり却って今でも面白い。哲学的に見ても(表象主義との葛藤への心意気は買うが)この著作で中心的に扱われている力学的アプローチは今となっ ては価値がよく分からなくなっている。むしろ哲学的な議論という点では、これより後に出たノエ「知覚の中の行為」の方がよほどしっかりしている。
テー レン&スミスやヴィゴツキーやハッチンスのような日本ではごく一部の認知科学好きにしか知られていないような優れた研究に言及されているのは少しうれしい が、全体してみると(当時は集大成的にも見えただろうが)今となっては雑多な感じもする。工学的な話題が多い点も、ファイファーなどによる身体性認知科学 の著作の翻訳が既にある事を考えるとそれほど価値がない。付録にある講演は最近のものなせいか面白いけど、これだけのためにこの本を買うのは高すぎる。
こ の本は今でも決してつまらない本だとは思わないけれど、認知科学の知識のある側からすると、知らないよりはマシだけど所詮古臭いからな〜と思うと微妙な気 持ちになる。個人的には、その後の認知科学の進展(特に生物学化)に対応するか、または科学から離れて技術環境の変化に応じた話をするか、どうであれもっ とアップデートした話を読みたいと思った。
1367161296 私が書いたアマゾンのアンディ・クラークの本のレビューは評判が悪いが、正直な所未だにあの程度の身体化論で喜ん でいるのは完全な周回遅れだと思う。認知科学的な身体化論は00年代まるまるかけて(ノエを最後に)ほとんど進展がなくて、ほぼ一部の哲学者の慰みものに なってしまったことは心に刻んでおくべきだ。別の本でのレビューでも書いたが、国際的には正統的なものが日本ではマイナーって状況は本気でマズイと思う。 というか、私はただブームに乗ってるだけの奴って嫌いだけど、基礎を地道に勉強しもしない癖に国際的な流行からも遅れてるってのはさらに見るべき所がない よな。
という訳で、今更身体化論で喜んでいる程度の奴等ばかりに自分のレビューが読まれるのはウザイのでクラーク本のレビューは消すことにした が、とはいえもったいないので、そのレビューは例によってこっちで再録です。少なくとも巻末の講演だけは私にも面白いと思えたが、本体はやっぱり今更…
1366899044 ベイトソン記事はこれで終わりです。もちろん続きを書く気もありません(だからこっちに出した)。
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*[註解]ベイトソン「精神と自然」を読む(二.五) <全体の構成再び>
**このまま先に進むのが面倒なので、改めて全体を見渡してみる
元々 は次の章の「誰もが学校で習うこと」の注釈に進むつもりだったが、これを書くために「isbn:4783511764:title」を読み直しているうち に、思ったより散漫とした章で章全体を扱うのは面倒で厳しいな〜と思うようになった。そこであらためてこの本の全体の構成を見直してみたら、ベイトソンが 言っているように、この本は大きく二つの部分が組み合わさったもので、一方は科学的にも質の高い興味深い章群だが、他方はそのレベルの高い話に入るために 付け加えられた散漫とした章群であると感じるようになった。
このように考えるようになった根拠は、イントロダクションの最初に書かれているこの本 の成立過程への言及にある。つまり、最初は「進化する思考」という構想((翻訳では「進化する思考」にエヴォルーショナリー・アイディアとルビが振ってあ る。この原語および対応する部分の内容から考えると、「進化する思考」は訳の分からない不適切な訳語で、「進化論的な考え」程度が内実に合った訳語だと思 う。でも今回はまだ内容の説明には入ってないので、この問題は後回しにして、とりあえず翻訳にしたがって話を進める))だったものが、それについてこれる 読者がいるかどうか心許なくなって、「誰もが学校で習うこと」という原稿も書き始めた、とされている。これらも元々は別々の原稿だったものがだんだんと一 緒になっていったとある。次に第三章「重なりとしての世界」の冒頭を確かめると、重なりに関する第三章と第五章も誰もが学校で習うこととして一つのまと まった章として始めは書かれていた事が分かる。これらから推論するに、元々の原稿「誰もが学校で習うこと」に当たる第二章と第三章と第五章、および原稿 「進化する思考」に当たる第四章と第六章と第七章、の二つの部分に分ける事ができる。そしてこの分け方は、私が散漫だと感じた章群と科学的に高度だと感じ た章群とにぴったり一致する。
私がこの本について語りたいと思ったきっかけは「進化する思考」に当たる章群にあるので、正直「誰もが学校で習うこ と」に当たる章群について語るのは面倒くさい。この本の「誰もが学校で習うこと」部分は「進化する思考」部分への導入として書かれた事を考えると、無理矢 理「誰もが学校で習うこと」部分について語る必要はないようにも感じる。とはいえ、確かに「誰もが学校で習うこと」部分は散漫気味ではあれど、「進化する 思考」部分に関連した話がない訳ではないので無視するのもどうかと思う。いきなり「進化する思考」部分の註釈に入ってしまっても構わない気もするが、もう 少し考えてみるわ。
isbn:4783511764:detail
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*[註解]ベイトソン「精神と自然」を読む(二) <構成とイントロダクション>
**全体の構成からこれからの読解の予定を組む
こ れから「isbn:4783511764:title」(参照はハードカバー版)を読むのだが、素直に順にすべての章を読む気はない。理由は簡単で、全体 の流れから浮いている章があるからで、それは別に扱った方が分りやすいからだ。その章とは重なりについて扱った第三章と第五章で、実際にベイトソン自身が これらの章は草稿では一まとまりだったのを内容が入り組んでいたので分けたと言っている(p.91)。その方が、関係→認識→精神→進化→文化と流れを捉 えやすいので、重なりの章は箸休め的な章と考える方が個人的には自然に感じる。かといってこれらの章を完全に無視するのもどうかと思うので、それについて は追々考える事にする。
とすると、全体の構成としては、私たちの世界への認識の仕方を論ずる前半、精神(心)の特徴をサイバネティクス的に考察す る中盤、個体より高次な階層について論ずる後半となる。重なりに関する章もちょうどこれらの間(前半と中盤、中盤と後半)に挟まっているので都合がいい。 サイバネティクスが特に問題になるのは中盤以降に入ってからであって、前半は私たちの世界に対する見方そのものが問題になっている。
**イントロダクションで生きた世界の秩序を学ぶ
この章の目的は、ベイトソンがこれからこの本で示す生きた世界の見方の基本を指し示すことである。ベイトソンは生きた世界を理解する上で「今ではすたれた物理学の反映で」(p.5)ある
正 統派唯物論は相応しくないとしている。これは第一講で触れた物質還元主義への批判である。実は正統派唯物論と並べて正統派宗教も人間観としては貧弱だと非 難されている(p.6)が、このイントロダクションでは正統派宗教についてはあまり述べられていない。既存の宗教への批判は最終章(p.285)で語られ る事になるが、これはベイトソンが非宗教的であることを意味しない。
その証拠のようにこのイントロダクションはアウグスティヌスからの引用で始 まっている。ここでアウグスティヌスが新プラトン主義から影響を受けた宗教的な神秘主義者であると考えて、やっぱりベイトソンは怪しいニューエイジなんだ と考えるのは早とちりだ。以前「isbn:432615375X:title」のアマゾンレビューでも触れたが、実はベイトソンはここで古代からの自然神 学の伝統を受け継いでいるのだ。古代の自然神学は自然が美しい秩序を持っていることを示していた。近代になって自然神学はダーウィンの進化論と仲が悪く なってしまったので、自然神学は非科学的だとされがちだ。しかし、ベイトソンは進化論を否定するどころか、この本でそれについて積極的に論ずることにな る。その事はその章になってから論ずるが、ベイトソンがここで示したいのは自然の秩序に対する感覚を忘れるな!という自然神学の教訓なのだ。自然の秩序と 言ってもベイトソンが考えているのはご都合主義な調和した自然ではないことは、第一講のエコロジー論で触れた。ベイトソンが自然に見るものは何なのか?
そ こでベイトソンが挙げる生きた自然の特徴は、ゲーテの形態論を受け継いだ生き物のパターン論である。ゲーテは色彩論や形態論において、当時隆盛していた機 械論に抗して生きた世界を捉えようと自然の研究に邁進した。ゲーテに代表されるロマン主義的な自然観については「魂から心へ」を参照してもらうとして、ベ イトソンの自然観を見てみよう。
**全体を貫くアイデア─パターン(関係)・タイプ(階型)・リカーシブ(再帰)─
続いてイントロダクションは本書で示される世界を生きたものとして見るためのアイデアを例を上げながら説明している。具体的な説明は直接に本文で読んでもらうとして、ここではそのアイデアを取り上げよう。
<h6>パターン(関係)</h6>
ま ず一つ目のアイデアはパターンである。ベイトソン自身は結び合わさるパターン(p.8)と呼んでいる。そこでベイトソンは蟹や象といった生き物の持つパ ターンに注目させている。ベイトソンが述べるパターンについて理解するには、レヴィ=ストロースなどに代表される(科学的)構造主義における構造と比較す ると良いかもしれない。構造主義に扱う構造の典型に代数的構造が挙げられる。代数的構造とは、例えば足し算では前後の数字を取り替えても答えは同じである (a+b=b+a)引き算では前後の数字を取り替えると同じ答えにならない(a-bとb-a)。掛け算でも前後の数字を取り替えても同じ答えになる (a×b=b×a)が、この点において足し算の体系と掛け算の体系は同じ構造を持っている。代数的構造とは計算の対象となる要素(数)同士のその体系にお ける関係のことを指している。こうした物同士の関係がパターンになる。
物の間の関係を見ている点で構造とパターンは似ているが、構造が非時間的な 関係なのに対して、ベイトソンの言及するパターンは時間的な関係を反映している。例えば生物の形態にはその発生過程が反映されている、つまり直前の状態と の関係=プロセスが大事であるとしている。時間の流れる動的な世界を静的な論理で捉えることはできないことは第二章でも問題になる。
ちなみにベイトソンを理解する上で大事な考え方にプロセスも挙げられるが、そこには後でも触れるサイバネティクス的な再帰性も関わっている。さらにベイトソンが挙げる関係には関連と文脈もあるが、これは後で述べよう。
<h6>タイプ(階型)・リカーシブ(再帰)</h6>
さ らにもう一つのアイデアはラッセルの論理階型を参考にしたタイプの考え方だろう。ラッセルの論理階型とは論理的なパラドックスを回避するために考え出され た論理体系の特徴である。とはいえ、ベイトソンはラッセルの論理階型を直接に用いている訳ではなく、互いに影響関係の異なる階層を導入しているにすぎな い。これはどちらかというとライルのカテゴリー・ミステイクの考え方に近い気もする。これを現時点で説明するのは大変だし、実際にベイトソンもイントロダ クションの時点では軽い言及で済ませている。さらにサイバネティクスと関連した再帰性についても触れられているが、これが静的な論理では捉えられない世界 の特徴を理解する鍵でもある。次の章は従来の静的な考え方では世界を捉えられないことが説明されることになる。
これで基本的な話は終わりだが、残 しておいた関連と文脈に触れて今回は終わりにしてしまおう。関連とは物事が関連している物と結びついているという話だが、あまりに当たり前すぎる話(関連 しているから関係している)なのであまり中身がない。問題は文脈(コンテクスト)であり、ベイトソンにとって文脈(コンテクスト)という言葉は鍵となる重 要概念であるにも関わらず込められている意味が多様なので混乱しやすい。イントロダクションでは、文脈はその状況にある物との間にある関係であるととりあ えずされているが、その後にはその発生のプロセスがコンテクストだとされている。ここではまだ述べられていないが文脈(コンテクスト)は論理階型的にも重 要な役割(よく出る例はイルカや行動主義実験のラット)を果たしている。ベイトソンは文脈(コンテクスト)という言葉にあまりに大事な意味を色々と込めす ぎている。だからベイトソンを論じる上で文脈(コンテクスト)と言う言葉は、その重要性にも関わらず安易に多様しすぎない方が良いように思われる((文脈 というのは、クラーク&チャーマーズによって有名になった延長された心の考え方と同じで、関係する範囲を広げているうちに世界全体まで必要とされてしまう という欠点がある。それを防ぐために関連性という考え方も必要となるが、何がそこで関連しているのかはそれほど自明ではないのでそれほど解決にはならな い。これを補うのがタイプ(階型)やイントロダクションではまだ言及されない発散と収束の考え方である。))。
isbn:4783511764:detail
1366472458 *[註解]ベイトソン「精神と自然」を読む(一) <序論>
もう単純に 「isbn:4783511764:title」について語ります。といっても、ベイトソンが『本当は』何を考えていたのかを知ることが目的ではないの で、同じ著者の様々な著作を相互参照するような人文学的な方法はとりません。あくまで読解による私的な註解を目指してますが、ただ面倒という理由だけで 持ってもない原書への参照もするつもりありません。愚直に翻訳書を元に勝手に語ります。以下の参照は私の手元にあるハードカバー版に準じて行います。
**とりあえず本文を読む前の準備
基 本的には、愚直に翻訳書をほぼ順に章毎に読む予定ですが、今回は全体を通しての注意から始めます。今回の目的は、ベイトソンを怪しいニューエイジの思想家 とする読み方を排除して、科学的な思索の持ち主としてベイトソンを読む準備から始めます。だから今回は例外的に最終章と付記を部分的に参照します。
***心身二元論と物質還元主義とを共に排する
ベ イトソンのこの本での目的は生きた世界を理解することである。それではどのようにベイトソンは生きた世界を捉えようとしているのだろうか。もちろん詳しい 議論は本文にあるので順に触れていく予定だが、まずはそうした議論の前提となるベイトソンの動機を理解しておきたいが、そのために始めは付記を見てみた い。
付記の最初のページ(p.297)で教育の前提が間違っていると論じられていますが、これは生きた世界を理解する上で間違った前提の指摘と なってます。a,b,cと箇条書きになっているその前提を大きく分けると心身二元論(a,b)と物質還元主義(c)に分けられます。心身二元論と物質還元 主義いう対立した考え方が共に否定されているのが特徴的です。このそれぞれの考え方が単独で批判されることは多いが、こうした両面攻撃は珍しい。この両面 攻撃の結果としてとられる考え方の紹介はイントロダクションに譲るとして、ますはこのベイトソンによって否定されている二つの考え方を検討したい。
<h6>物質還元主義のこと</h6>
ま ずは扱いやすい物質還元主義について。論理実証主義の時代に隆盛した物質還元主義だが、いまでも反抗する人は多い。ベイトソンを反還元主義としてとらえた 人たちも多く、それがベイトソンを怪しいニューエイジの思想家とする源ともなっている。そもそもこれ以前にベイトソンが怪しい論文を書いていたという事実 もあるらしいが、それはここでは問わない、少なくともこの著作ではそうした怪しさはすっかりない。反還元主義というのは今でも支持する人は多い。そうした 人たちは、たとえ非科学的にまではならないまでも、全体論や創発といった何の説明にもならない概念にすがりついていることも多い。ベイトソンにとって反還 元主義は動機ではあっても目的ではない。またこれは直接にベイトソンが述べていることではないが、方法的な還元主義を否定している訳ではない。この著作で のベイトソンの目指しているのは、還元主義を越える世界の見方を示すことであって、科学的方法は関係ない。
<h6>心身二元論のこと</h6>
次 は心身二元論への批判だが、これ自体は現在では主流の考え方だ。とはいえ、それはベイトソンのような二面攻撃ではない。今時明らさまな物質還元主義を採用 している人がどれくらいいるかはよく分からないが、少なくとも哲学ではそこまで明らさまではない。非科学的な哲学について述べてもしょうがないので、そこ で科学と比較的に相性の良い分析哲学について軽く確認しよう。
分析哲学で主流となっている考え方は物理主義と呼ばれており、科学的に認められる物 だけが存在しているという考え方だ。科学的に認められる物のほとんどは物理学や化学の対象なので物理主義と呼ばれる。分析哲学の形而上学(分析的形而上 学)では科学を元にして世界を再構成できるような存在論的な理論が目指されているが、その時に基本的にとられている考え方は物理主義である。物理科学的に 存在するものから始めるために、メレオロジーを基礎にした構成問題やモデル理論を基礎にした普遍問題などが哲学的に議論される。ここにさらにスーパー ヴィーニエンスを基礎にした心身問題が加わるが、物理主義を基盤にした分析的形而上学ではここで話が止まってしまう。心身問題とは心と物との関係を問題に しているが、スーパーヴィーニエンスとは心と物との間に(還元ではなく)相関関係を見ることで心身問題を解消しているが、そうした弱い解決法であるが故に ここから先に進むのは困難だ。ベイトソンが目指すのはここから先に進む事だが、それはイントロダクション以降に進んでから論じよう。
***二つのエコロジー概念─規範としてのエコロジーと認識としてのエコロジー─
も う一つ注意する点にエコロジー概念がある。ベイトソンはエコロジーへの言及でも有名だけれど、ここには大きな誤解もある。エコロジーには大きく二つ問題と なる意味があって、規範としてのエコロジーと認識としてのエコロジーがある(さらに学問としてのエコロジーもあるが、それはここでは特別には取り上げな い)。単に「エコ」とも呼ばれている、世間的にエコロジーとして理解されているのは、自然に優しい生活といった規範としてのエコロジーである。しかし、ベ イトソンがこの意味でエコロジーを使っていないのは最終章「それで…」を見ると何となく分かる。ベイトソンは自分のことを冷笑家のレミングだと認めている (p.285)が、これはベイトソンが自然に優しい生活の勧めとしての規範的なエコロジーを提示していないことを示している。この直前までを読めば分かる が、ベイトソンは世界をエコロジー的(生態学的)に見ようと勧めているのであって、特定の生き方(自然に優しい生活)を押し付けてる訳ではない。
中 沢新一辺りは今でも良き自然哲学があってそれを人々が受け入れれば自然と調和した生き方をするだろう…みたいなことを夢想しているようだが、これはロール ズの批判する包括的世界観と同じだ。つまり、哲学が人の生き方を示すべきだとの考え方だが、そんなものを他人に押し付けるのは自由を基礎にした近代社会で は単に余計なお世話でしかない。ローティではないが、下手に哲学の振りをせずに個人的な価値観として提示すれば問題ないのに…と思う。ベイトソンが差し出 すのはそういう余計なお世話の規範的なエコロジーとは直接には関係なくて、世界を生きたものとして見る見方としてのエコロジーである。
ここまでで 本論を読むための準備だが、もう既に疲れた。「精神と自然」は私の愛読書の一つだが、これまで書いたことなど私にとっては自明な事でしかない。次回は全体 の構成とイントロダクションに入る予定だが、あくまで気まぐれでやってるのでまた書く気が起こるかも分からない。
isbn:4783511764:detail
1366468960 ブログが非公開だった件は、はてな側の手違いということで元に戻った。既にお伝えしたようにブログは統合して一つ (http://d.hatena.ne.jp/deepbluedragon/)にしてしまった。とはいえ、書きたいネタがないので記事の更新なんてし ばらくなさそうだが。
ところで、ベイトソンの記事は既に先が続けられないと分かってしまったので公開前に削除してしまった。とはいえ、せっかく書 いたもの(全2回+補論1回)はもったいないのでここで出してしまうことにした。例によって読者ゼロでも構わない自己満足ですが、どうせ没記事なので問題 ない。
1366124279 この前のベイトソンの記事が読まれないって話は、結局ブログが勝手に非公開になっていたせいだと分かった。はてな に連絡したからそのうち何とかなるだろうけど、理由に心当たりがない訳じゃない。というのは、はてなに登録していたメールアドレスがかなり古いものがその ままだったせいじゃないかと思う。登録メールアドレスは変更したので大丈夫だろうと思うけれど、ついでにこの際だから現行のサブアカウントのブログ記事を 元々のブログに統合して一つにしてしまった。サブアカウントそのものも既に削除してしまったので、そちらのブログは既にないが、記事の移行は済ましてし まった。後は公開できる状態を待つだけだが、余程のことがない限り一週間以内には公開可能だろう。
1365345573 認知科学については、相変わらず日経サイエンスを愛読していることを除けばあまり関わりがない。アマゾンで少しレ ビューを書いたが(いろんな意味で)古い本ばかりでしかない。気が向いてネットで認知科学の最新事情を調べても見たが、専門分化が進んで中心的な話題など なかなかない事を脇においても、個人的に面白そうと思う話題はあっても一般に紹介できるほどの面白さではないので、記事に出来るほどの事はない。やっぱり 認知科学は革命期の遺産を既に食いつぶして安定期に入ったんだとつくづく思った。
1365345557 あのブログには哲学史や思想史に関する書評が多いが、今や日本では哲学史や思想史にはろくに興味が持たれていない ことは痛感するしかない。若手であれ年配であれ評論家っぽい人たちが哲学史や思想史に興味がないのは今や当たり前だが、その前兆は現代思想学者の哲学史や 思想史に対する教養のなさにすでに現れていた。要するに学者や評論家も含めて自分の狭い興味のあることについて勝手に語る事にしかやる気がなく、過去の遺 産とかはどうでもいのだ。一応サンデルや池上彰のブーム以降にジャドレ・ダイヤモンドに代表される教養的な文庫や新書がしばらく売れはしたが、そもそも 「不思議なキリスト教」が売れた時点でそんな教養ブームの底の浅さは知れていた。
1365345531 この前ブログ(http://d.hatena.ne.jp/darkbluedragon/)に出したベイトソ ンの記事は無闇矢鱈に読まれない(アクセス数が極端に少ない)ので、続きは少しだけ書いたがたぶんもう出さない。あのブログがあまり読まれないことは前提 済で、実際にツイッターその他で宣伝は一切していない(ちなみにここもどうせ読まれない前提)。とはいえ、いくらなんでも今までの感じからすると少なすぎ る(誰かの陰謀?)。
「精神と自然」は大きく二つの構想による章に分ける事ができて、まとまりがあって科学的で面白いのは一方の構想部分だけなの で困った…みたいな所でどうせ詰まっているから別に構わない。それに既に出した記事の目的の一つは中沢新一的な考え方(良き自然哲学によって人々が自然と 調和した人生に目覚める)を批判することだったが、たとえそれが読まれなくとも、批判をこうして軽く表明できただけでも個人的には満足なのでその点からも 構わない。
1363098755 二十世紀の二大科学革命である認知革命とハミルトン革命(社会生物学革命)の意義というのは未だによく理解されて いない。それまでの物理学を規範としての還元主義から、情報概念を基盤にした相関主義(物の層への還元ではなく単なる相関)への転換だったはずだ。つまり 物質の層と情報の層を分けて考えることだ。
認知革命の場合はこうした物質から情報への転換が分かりやすいが、社会生物学の場合はそれが見えにく い。有名なドーキンスやトリヴァースの社会生物学の啓蒙書を読んでみ、最初の方の章に分子生物学の章があって、表面的には物質還元主義に組みしているよう に見える。しかし、それは表面的にそう見えるだけで理論的には異なる。たとえ行動の遺伝の計算に分子生物学の成果を使っていようとも、それはあくまで計算 上の参照でしかない。別に行動が遺伝する仕組みが分かった訳ではなく、遺伝子の全体がある行動や形態を生じさせたことを前提としているに過ぎない。これは 認知科学を例に上げた方が分かりやすいだろう。つまり、認知科学でも行動を制御する脳(神経系)の仕組みが直接に分かっている訳ではなく、脳(神経系)の 全体が行動全体を生み出していることを前提にして、各種認知を生み出すシステムを想定しているのだ。認知科学や社会生物学の科学性は観察される行動とそれ を説明する計算によって担保されるのであって、物質的な仕組みまでの必要はとりあえずない。もちろん計算的な理論を考える上で遺伝や脳に関する研究成果は 参照されるが、それでも物質の層と情報の層が分かれていることに変わりはない。
近年の認知科学では生物学化が進んでいるが、それが単なる生物学還 元主義としか思われないとしたら勘違いもいいところだ。だいたい生物学そのものだってきれいに統一されている訳ではない。生物学全体を統一させる視点が進 化論であることは確かだが、だとしても分子生物学(物質)と社会生物学(行動)との距離がまだまだ遠いことには変わりがない。二十世紀の二大科学革命は生 き物を科学的に扱うために一度物質科学の桎梏から自律したのであり、それが理解されないままに安易に生物学還元主義を当たり前のように受け入れてしまうの は危険だ。とはいえ、物質の層への反抗は科学的に成功したのだとしても、情報的計算の層への反抗までが必要ないとはまだ言えない。しかし(人文系を中心と した)そうした反抗が科学の否定や無理解から生じてるのだとしたら虚しい試みでしかない(アフォーダンスやオートポイエーシスを未だ信じている残党の科学 的な無知には呆れるしかない)。
…みたいなことを、フーコ─的な近代エピステーメーの到達点としての認知革命と社会生物学革命を基軸にして書いてみたい欲望はなくもない。でもそんなことを書ける能力も環境も自分にはない。
1363098622 ブログにもツイッターにもこんなこと書く気がしないので久しぶりにここに書く。
スマートフォンの登場に よって「人を賢くする機械」としてのコンピュータは実現してしまった。であるがゆえに、それに見合う能力から程遠い人間の無能さが目立つようにもなってき た。AI(人工知能)からIA(知能増幅)へと流れが確実に変化したが故に、機械が人間の代わりに考えてくれるのではなく、人を支援する機械としてのコン ピュータという方向性が全面化している。しかし、それは機械による人の知性の増幅という夢の未来ではなく、ネットの情報への安易な依存という夢も何もない 未来に向かって確実に進んでいることは明らかだ。ネットの情報そのものは人によって作られるしかない(ボットの差し出す情報も元は人の作ったものだ)の に…。
1329404657 はてなブログはまた自分の所ではうまく編集できない。面倒だからもうやめよう。
1325777594 新しいはてなブログは少し試してるけど(自分がマイナーなブラウザを使っているせいか他に原因があるのか)ダイアリーみたいにうまく記事を編集できないなぁ。面倒だからもうやめようかな
1325260556 新しいはてなブログに移行してもいいけど、手軽さからいうとこっちの方がいいんだよな。そもそもほとんど人に読ま れないからこそ好き勝手書けてるし、結果として検索にも当たらないのも悪くない。でも、いくら読者ゼロでももはや気にならないとはいえカウンターはないよ りはあった方がいいしな。それに、「クラッシュ・オブ・ヒーローズ」の情報サイト(攻略サイトは無理かな)みたいにしたい気もするから、はてなブログに移 行するかは迷うな〜
1325169891 おっ!いつの間にかはてなブログがオープンベータ版になってた。このはてなハイクもほとんどブログ状態になっているから、そっちに移ろうかな
1325167593 振り返って見ると、認知科学は学生時代を含めて約15年ぐらいの付き合いで、哲学は目覚めたのが遅かったとはいえ 10年程接してきたけど、さすがに以前ほどの魅力は感じなくなって飽きてきたかな。自分はネット上でさえ自分と同じ趣味嗜好を持っている人を見かけなくて も地味にそのテーマと付き合い続ける人物だけど、そのくせ飽きやすくもあってそうすると平気で別の領域に移動する。だから認知科学や哲学との付き合いも休 み休みあって断続的ではあったが、これ以上付き合い続ける動機は薄れてきたかな。専門家だったらそうもいかないだろうが所詮は素人の自分はそんなものだ。
こ こしばらくはDSゲームを調べてきたけど、今は3DSに移行していることもあって調べることはすぐにも尽きそうかな。日本で圧倒的に評価が高いエルミナー ジュは中古でも値段が高くて手が伸びないけど、そもそも自分はウィザードリィ好きでもない上に目新しい要素もあまりないしそもそもアトラスのRPG(世界 樹2と真・女神転生)をそれなりにやってもう自分はRPG好きじゃないかなぁとも思っているのでますますやる気がしない(でもやってみたら面白いゲームっ てもあるからなぁ)。カドゥケウスとかナイト・イン・ザ・ナイトメアみたいなDSならではの変わったゲームもやって一応面白いとは思ったけど、あまりの面 倒さにやる気が失せたし(所詮はぬるいゲーマーです)、評判の高いメテオスも中古で探し出してやったけど、これがOKなら数陣タイセンも同じぐらい良いだ ろ〜と思ったり。あと中古の値段とゲームの面白さは必ずしも関連しないことも新ためて学んだし。現時点でまだ興味のあるDSソフトは素晴らしきこの世界と GTAチャイナタウンウォーズ(どっちも海外でも評価高い)ぐらいだけど、どっちも中古でも値段高いなぁ。シレン5は早くも安いのが出てるけど4との違い があまりない(だいたい作成した道具の削除ができないという欠点があるらしい)からどうでもいいや(ちなみにドラクエ9もシレン4も一部ファンが貶す程ひ どくはないが褒める程の出来でもないと思う)。
1325167532 そういえば、海外では悪魔城ドラキュラやソニック(あと穴場ではブリーチDSも)のようなDSのアクション・ゲー ムの評価が高くて評判をよく見かけるが、日本では(極一部ファンの評価は高いけど)評判をそれほど聞かない。自分はアクション・ゲームはあんまりやらない からよく分からないけど、DSはアクション駄目とか言ってる人はこれらも含めて言ってるのだろうか?
1325085308 いろいろとネットでゲーム評を調べていて思ったのは、ゲーマーには萌えオタを嫌っている人を時々見かけることだ。 振り返ってみると、1990年代までは(イースの)ファルコムや(ぷよぷよの)コンパイルのように高いゲーム性と萌えるキャラとは共存関係にあったのだけ れど、21世紀に入って萌えがブームになってから以降はゲーム性と萌えが分離し始めたように思う。分離どころかゲーマーが萌え要素を嫌って、萌えがゲーム を駄目にしたと思っている節さえ感じられる。私自身は熱心なゲーマでは一切ないのけれど、心性的には萌えオタによりはゲーマーに共感を覚えてしまう。しか し考えてみると、ゲーマーに好まれるゲームって萌え要素が全くないかたとえあっても表立ってそれが押し出されないものがよくあるような気もしてくる(例え ば萌え要素だらけのオープンワールドのゲームとかありそうにない)。私の気のせいかも知れないが、ゲーム性と萌えの相性は昔より悪くなったようには感じる (少なくとも一緒くたにしてオタク的とは呼べそうにない)。
1324914757 3DSは任天堂からキラーソフトが今年いくつか出て評判がいい(モンハンは評判良くない)けど、本当の勝負は来年 辺りだなぁと思う。動物の森その他のキラーソフトもそのうち出てくるだろうけど、特にDSの時みたいに任天堂が他の制作会社と組んで変わったソフトでも出 してくれないと面白くない。しかし、3DSはDSに比べると改悪もあったりしてあまり印象が良くない。3D機能が付いたってのも最初に聞いたときは一時的 な流行にのるなよ!と思った。その後ゲーム店の店頭でゼルダの体験版をやって印象はやや良くなったが、また最近同じ店頭で3Dマリオやマリオカートやって みて(特に激しいアクションで)3D表示のままゲームをやり続けるのは厳しいなと思った。
そもそも3D機能がゲームの可能性を広げるとはあまり思 えないのもあるが、それ以外にも、DSのしょぼいグラフィックが実はゲーム開発費を抑える役目を果たしていて変わったゲームがいくつも出ていたが、3DS だと余計な開発費(特に3D機能)がかかって変わったアイデアのゲームが出にくくなるのでは?という懸念だ。据え置き機はすでに容量と性能のせいで膨大な 開発費がかかって大変な事になっていて、ソフトによってはハードに依存しないゲーム作りにせざるを得なかったりもするが、そもそも費用の回収を考えると新 しいタイプのソフトは怖くて出せないところもある(それを考えるとハードとソフトの両方に関わっている任天堂はうまい)。アイデアを中心にしたゲームが出 せたDSって今考えても偉いと思う(グラフィックにこだわる馬鹿ライトゲーマーなんて本当にどうでもいい)が、3DSにそれを望むのは困難だろう。
あ と3DSの改悪だなと思ったのは十字キーが下の方に付いてることだ。DSではタッチペンとボタンを組み合わせてプレイするソフトがあったが、その時は利き 手が左右どちらでも大丈夫なように十字キーとABXYキーが対称的に配置されていて便利だったが、その利点を消してしまったように思えて、タッチペンを使 わせる気がないのでは?とさえ勘ぐってしまう。そのくせボタンの数はDSと同じなのだからどうしようもない(PSPと比べるとボタンの数が少なくて不便っ て話は前からあったはずだが…)。ちなみに、そもそものところにおいてDSのタッチスクリーンでさえうまく使ったソフトというのは多くなくて、それを考え ると(任天堂のような責任を持って機能を生かしたソフトを出す会社が特にはない)VISTAはあまり期待できそうにないが、もちろん先のことは私には分か らない。
DSであれ3DSであれうまくゲームを作る最大のコツはタッチスクリーンを無理には使わないことで、その次が二画面を生かすことだと思 う。どうせハードに依存したゲームしか作れないんだから、いろいろ工夫してほしいな!と思う。任天堂は(iPhoneの)Appleや(Kindle の)Amazonと比べても見劣りしない数少ない日本の創造的な企業だと思うから頑張ってほしいなぁ〜
1324829601 Might and Magic:Clash of Heroes(「クラッシュ・オブ・ヒーローズ」)は最初の章のAnwenが終わって次の章のGodricに入って現在トーナメントを勝ち抜き中。なかな かの難易度で私の相変わらずのケアレスミスと余計な完璧主義のせいで先に進められないので雑魚戦でレベル上げする。雑魚戦は完全回避もできるようになって いるので、レベルを上げずに厳しいバランスでやりたい人の気持ちにも応えているようで好印象。
てか、合間にやった応援団2で隠しモードが出てきて 面白いことになる。隠しモードでやる「気楽に応援」は楽しい。「クラッシュ・オブ・ヒーローズ」は面白いけどそんなに早くは進められないかな(自分のペー スでやりたいから古めのゲームやってるのだからなぁ)。ていうか、CPU戦モードだけで十分に時間潰せちゃうし、結局の所英語読むの面倒ってのもあるから なぁ。
1324743976 注文してた直輸入DSソフト(RPG+パズル)のMight and Magic:Clash of Heroesが早めに届いて思いがけないクリスマス・プレゼント気分。しかもゲーム自体がかなり面白いので喜びも倍増。こんなに面白いゲームが日本のネッ トでさえろくに話題にされてないなんて不可解。HD版の体験版もあるらしいので興味ある人は是非(ただし二画面が生かされている上に慣れると戦闘はタッチ ペンでやるのが楽なので、DSと比べて操作性がどうかは分からない)。
単純なCPU戦モードだけでも楽しくていくらでもやれてしまう(プレイ感覚 は落ち物パズルにも近いが戦略的な戦闘なのでそこはやはりRPG的)。ストーリー・モードはまだそれほどは進んでないけど既に十分に面白い(個人的には心 の中の殿堂入りゲームの候補)。ただRPGだから英語が読めないときついかもしれないが、ストーリーは王道の復讐ものでたいしたものではない(まぁ私はラ イトノベルレベルの物語でも大して評価しないので厳しいかも知れないが、はっきり言ってゲームにとって物語はどうでもいいと思う)ので読むほどのことはな いが、クエスト内容や戦闘の勝利条件(例えば攻撃してはいけない人質がいるとか)が分からないと先に進めないのでそこは英語で読むしかない。難易度もそれ なりには高くて適当にやっていれば進める程は甘くない(ただしチュートリアルがしっかりしてるので初心者[つまり自分]にも安心)。お世話になった楽天の ショップ(http://bit.ly/s93MW7 )にゲーム画面が紹介されているのでリンク。少なくともどこかに日本語版の紹介サイトでも作ろうかと考えてしまうほどには面白い。
ちなみに参考ま でに(PS1以降の据え置き機は一切やっていないぬるいゲーマーである私の)個人的な心の中の殿堂入りゲーム(単なる面白いゲームとは別格)とは、スー ファミの風来のシレンとタクティクス・オウガとカオスシードにプレステ1のドラクエ7とベイグラントストーリーに最近はDSの応援団シリーズが加わった が、Clash of Heroesはそれらと比べても今のところそれほど遜色はないが、最初はすごく面白かったけど半ば辺りで飽きたゲームも山ほどあるので先のことはまだ分か らない。子供の頃はファミコンでドラクエやファイファンを何度かクリアしたりもしたがそれは殿堂入りってのとは違うし、任天堂のキラーソフト(マリオとか ゼルダとかファイヤーエンブレムとか)も面白いとは思うけど殿堂入りとは別の感覚だな。
1324649525 山形浩生が好意的に扱っていた「決着!恐竜絶滅論争」が近所の図書館にあったので読んでみたけど、これが面白かっ た。薄い本だけど内容はしっかりしていてお勧め。科学とか何か?の一端が垣間見られて興味深い。とはいえ、あくまで一端。科学なんていろいろと幅広すぎて すっきりとこういうものだ!とはとても言えない。科学とは何か?を知る上でこれまでの私の一番のお勧めは、スノーボール・アースについての論争を眺めるこ とだったが、恐竜絶滅論争もそれと比べてもなかなか悪くないと思う(ていうか、どっちも地球科学領域の研究だけどあくまでたまたまだと思う)。
1324480167 近所の図書館で「哲学オデュッセイ」という新刊があったので覗いてみたら残念な結果に。目次を見ると哲学者の名前 に混じって科学者(特に神経科学者)の名前もあって期待はさせるのだが、中を覗いて見ると、あぁこの人は哲学分かってないな〜と思ってしまった。著者の経 歴を見ると科学的な書が多いのであくまでそっち方面の人で、哲学の素養は特にはないのだろう。いろんな科学的成果に言及されていたりはするので大澤真幸よ りは高級な衒学ではあるが、タイトルに引かれてそれ以上の期待をしたりはしない方が妥当だと思う。少なくとも私はこの本をお勧めしたりはしない(ドイツの ベストセラーだろうと知ったことではない)。
ちなみに(翻訳を除く)今年(ここ数年?)の哲学関連の最大の収穫は多元的自然主義の本だと思う。
1324307836 私は以前から(新しいゲームは全くやらないが)少し古めのゲームをネットでの評価を見て中古などで買ってやる…み たいなことをやっていた(これだと時間とお金をそれほど無駄にせず自分勝手にゲームを楽しめる)。長らくゲームにご無沙汰だった私が、シレン4(もちろん 期待はクリア後ダンジョン)が目的で買ったDSだが、そのシレン4が思っていたほど面白くなくてDS機を持て余していたので、ここ半年ほどは面白そうな DSゲームを調べることが多い。
最近は日本のDSゲームの応援団シリーズの海外版であるElite Beat Agentsを購入してプレイしてものすごくよかった(ちなみにこれは日本で比較的よくプレイされている数少ない輸入DSソフトかもしれない)。その影響 もあって、最近は英語圏でのDSゲームの評価を検索して見ているのだが、調べてみると英語圏でも日本でのゲームの評価とかなり一致していたので、昔から日 本と海外ではゲームの好みが違う(例えば自由度の高さ)…と聞いていたのでちょっと驚いた。(多少の好みの違いはあれど)面白いゲームは日本でも海外でも 同じように評価されていたのにホッとした(例えばhttp://www.amazon.com/40-Most-Important-games- 2004-2010/lm/R2YSXE2LT6TZT9/を参照。メテオスと応援団および任天堂のキラーソフトが上位。エルミナージュなどの定番をここ
以外でも見かけないのは海外版がないせいかな?)。とはいえ、日本と海外でだいたいのゲームの評価は一致するとはいえやはり好みの違いはあって、ドラクエ9なんて海外での方が評価が高い気がする(あんなやり込みだらけのゲームに評価高すぎ)。
そ うした調査の中でMight and Magic: Clash of Heroes というDSゲームをたまに見かけるので、日本語の情報でもないかと調べたら大したものがない。私の御用達のDSゲーム評サイトのmk3の海外ゲーム評の中 にもなかった(もちろんゲーム評はアマゾンにもなかったしお世話になった楽天のショップにもなかった)。パソコン・ゲームにMight and MagicってRPGがあったな程度の知識しかなかったが、RPGとパズルを合体させたパズル・クエストの続編ということだ。パズル・クエストは日本でも 手に入り、DS版はバグで評判が悪いがPSP版は評判がいい。自分は変わったゲームが好きだから興味は出てきたが、買うかどうかは迷う。
1324223808 主流の四次元主義ってのはアトム論的メレオロジーと組み合わせるのが基本だが、四次元主義の長所は同一性への柔軟 さにあるのだけれど、その長所は(科学では未だに発見されていない最小単位である)哲学的アトムの同一性を保つのが困難であるという欠点にもなっている。 哲学的アトムの同一性は絶対的でなければアトム論的メレオロジーの基盤が怪しいことになって問題である。その点では形而上学的ニヒリズムやメレオロジー的 本質主義をとる三次元主義の方が優れている。四次元主義と三次元主義が対立するのはどちらもがアトム論的メレオロジーを採用しているからであって、四次元 主義がそれを放棄してしまえば問題は消えてしまう。
その候補の一つとしてあるのが、ホワイトヘッドが「自然という概念」でとっているメレオロジー である。アトム論的なメレオロジーというのは、アトムという最小単位を部分として物を組み立てていく全体−部分関係によって成り立っているが、ホワイト ヘッドは逆に全体から部分を取り出すメレオロジーを採用している。これなら哲学的アトムの同一性に悩ませることはなくなる。ただし全体の同一性という新た な問題も現れてくるが、全体にはその外側はないから哲学的アトムよりは扱いやすい。それでも全体なんて導入するのは嫌だというのなら、無限小を導入しても 理論的には同じ事である。部分への無限分割可能性を基本にしているので、全体を出発点にしても無限小を出発点にしても理論的には同じ事である。この無限小 はライプニッツのモナドと似ているので、これからこのタイプのメレオロジーをモナド論的なメレオロジーと呼ぼう。モナド論的なメレオロジーは物(アトム) を基本にしているのではなく場(全体)を基本にしているので、もしかしたら現代物理学とも相性がいいかもしれないが、私は物理学には詳しくないのでそれに ついては論じない。(よほど強力な理由がない限り)哲学が科学を否定するとしたら問題だが、かといって哲学が科学を前提にする必要はない。形而上学は科学 の背後にまで遡る試みだからだ。
モナドの同一性なんて話を始めるととんでもない面倒な議論になるので、全体の同一性だけを前提にしよう。全体が無 限大である可能性もあるが、科学的にどうであるか(宇宙は有限!)を無視しても、無限大を同一性を持った全体として定義すればあとは有限なる部分を取り出 すだけになる(無限大をそれ自体として扱う必要はない)。モナド論的メレオロジーの良いところはアトム論的メレオロジーを含みこむ事ができることであり、 これで(アトム的)三次元主義と(モナド的)四次元主義の間に対立はなくなり、ニュートン的古典力学とアインシュタイン的相対性理論の関係のように、前者 は後者の特殊事態にすぎなくなる。日常的には便利だからアトム的三次元主義やニュートン的古典力学を採用しているのであって、その限りでは間違ってはいな い。本当の問題はどのように場から物を生成させるかだ。一番簡単な方法は、境界を導入することで物を発生させることである。もちろんどのような境界が生じ ているかは場のあり方に依存する。場は四次元的に不均衡な構造を持っており、(実際にはありえないが)外側から観察すれば時間の矢によって変化する過程そ のものである。物とは場の安定した境界部分であり、物の同一性は場の安定性から派生的に生じている。
ちなみに、物を持つ性質や関係については普遍 問題に関わるのでここでは論じない(もちろん心身問題もここで論ずべき問題ではない)。因果や力(エネルギー)についても場によって扱えるかもしれない が、それはどちらかというと物理学の仕事のような気もするし私自身の独特な見解もないので何も述べようがない。モナド的四次元主義からアトム的三次元主義 を導くことがここでの目的だからだったのだから構わないだろう。
1324137112 今年は認知科学入門と分析哲学入門が出たけど、どっちも入門ってよりも概論って感じだなぁ。前者のよく分かってな いのに構造主義に言及するな!とか後者の翻訳もないのに論文のタイトルを訳して書くな!とか突っ込みどころはあるけれど、大学の講義の教科書には悪くない 内容だと思うが、これは逆に言えば読み物としてはどうなの?ってことでもある。ここ数年は古典の文庫化や翻訳本は優れていている(1月もルロワ=グーラン が文庫化される)のだが、入門書や解説書はあまりパッとしない感じだった。
1323792868 ・アマゾンに出すかもしれないゲーム評(とりあえずの第一稿だけど、譜面の点と線による演出の面白さが表現できてないのに気づいて、他の音ゲーとの区別がつかないので却下。あと3DSに移行して続編もありえないから末尾も削除だな)
「燃えろ!熱血リズム魂 押忍! 闘え! 応援団2」
→確かに収録曲やシナリオはイマイチだけど、リズム感のある譜面ではシリーズNo.1
安く中古で買ったこの作品があまりに面白くて、さらに前作や海外版も手に入れてやった。その感想として思ったのは、応援団2はあまり正しく評価されていないことだ。快適なシステムだけが変更点ではない。
応 援団2の選曲が微妙なのはよく指摘される点で、私もそこには同意する。特に選曲が素晴らしい海外版をやった後に応援団2をやると、その収録曲の多くがショ ボいのにがっくりくる。個別シナリオも前作に比べるとギャグ色がかなり強くなっていて、海外版はコミカルなシナリオとクールなエージェントの対比が効果的 だが、濃いキャラの応援団とセットで悪ふざけなシナリオだと違和感がある。前作や海外版の方が好きだという人の気持ちはよく分かる。しかし私自身はこのリ ズム魂が一番好きだ。なぜならマーカーの配置された譜面が洗練されていてよく出来ているので、叩けるようになったときのリズム感が半端なく楽しくて何度で もプレイしてしまうからだ。
シリーズ通しても言えることだが、難易度の低い内は叩くマーカーの数が少ないので、リズムゲームよりはタイミングゲー ムに近く、独特の難しさがあっていまいち面白くない。しかし難易度が上がって(果敢の終盤や過激の序盤辺りから)マーカーの数が増えると、曲のリズムに のって叩けるようになるので楽しさが一気に倍増する。いや正確には、その曲のクリア前はその難しさに根負けしそうにさえなるが(特にクリア後しばらくゲー ムを進めてから)同じ譜面の曲を再プレイすると、以前にうまく叩けなかったところが楽に叩けるようになって曲のリズムに楽しくのれる余裕が生まれる。この リズムにのれる譜面の点では応援団2はシリーズ随一で、その部分では前作や海外版はせっかく選曲が良くても曲によっては譜面がいまいちなことも時々あって 萎えてしまう。印象の薄いJ-POPなのに何度もプレイしている内に楽しく叩けてしまうのは応援団2ならではの特徴だと思う(ただし過激のラスト付近は難 易度があまりに高すぎて楽しくないが)。
とはいえ、こうした応援団2の長所はプレイヤーへの敷居を上げる点では短所にもなり、実際のところ本当に 面白くなる前に挫折してしまう人もよくいるようだ。もし続編が出せるなら、難易度調整には初心者用の曲を用意する(子供の応援団でも出せばぁ)などしてほ しいものだ。ちなみに個人的にはアイドル曲だけの応援団とやってみたいなぁ(Perfumeで叩きてぇ!)。
1322752908 最近は古いDSのゲームにはまっていて、せっかく頼んた石黒ひで「ライプニッツの哲学」を借りてきたのに読み込め ていない。この本はいい本だとは思うが分りやすい本とは言えず一読しただけではライプニッツについて分かったという感じがそれほどしない。この本はいろん な学者のライプニッツ解釈を批判してるのだけれど、いつの間にか話が飛んでるところがあって結局モナドって何?外的指示って何?みたいな疑問が残ったまま になってしまう。論述に関してもお世辞にも分かりやすいとは言えず、行間を自分の知識で埋めないと理解しにくい。例えばライプニッツは意味と概念を分けて 考えていたけどルイス流の可能世界意味論ではこの意味と概念の区別が付けられないので三角形と三辺形の区別が付けられない…みたいに考えていかないと分か りにくい。そもそもライプニッツの見解として語られていることにあっちとこっちで矛盾しているところもあり、例えばライプニッツは一方で本質の存在を認め ていて他方で唯名論を評価していたとあってややこしい。唯名論に関しては、オッカムの中世的唯名論はいいけどロックの近世的唯名論はダメと言っているが、 これはパースも同じような事を語っているがパース自身は唯名論を支持していない。また、ある観念を持つ事がいつかそれによって考える事であるとすると(極 端に遡って)生まれたときからその観念を持っていたと言えておかしい…との指摘は面白いけど、代わりにそれは能力であると言うのだが、能力をいつかそれが 発揮されることで確認できるのでなければ、その能力があることを知ることは不可能である。本には記述はないのだが、「いつか〜だろう」の時間的可能性と 「もし〜なら…」の同時的可能性を分けて考えれば、後者こそが能力だとも言えるが、そもそも人間が現実から切り離された可能世界の知識を持っていとを考え る事には問題がある。ライプニッツは一貫した体系を提出している訳ではないと著者は指摘しているが、その一貫していないところを直接には示してくれないの で、読者の側で注意して読むしかない。この本が良い本であることは全面的に認めるけれど、読者の側に読解力がなければ得られるものは少ないように思う。
1322150085 (主に地震前の)サンデルや池上彰のブーム以降の流れから分かるように、日本には知的好奇心を持った人が実は溢れ ていて、それを満足させようとしたベストセラーが目立つようになった。しかし、元から日本には読みやすくて質の高い知的な読み物を書ける人などめったにい ない(だから少数の人を使い回すが段々と質が下がる)し、それを作れるように編集者が積極的に関われる状況もない(ちなみにこれは日本では出版社の側の著 作権が弱いせいだと聞いたことがある)。新書のベストセラー辺りを見ても、確かにアリ本なんかは質の高い素晴らしい本だったが、キリスト教本のような社会 学者の書いたトンデモ本みたいな本もあったりする。要するに、一般人の側からは読みやすさで判断することはできても内容の正しさまでは判断できないので、 まともな書評が出回らない限りトンデモ学術本が平気で売れてしまうことになる。まぁ、日本でトンデモ学術本が売れてしまうのは今に始まったことではないと はいえ、それが修正されることもなかったことにウンザリしさえする。
日本では学問の世界でさえ相互評価システムが機能してないところがあるが、批 判的な書評がろくに出ないこともその表れの一つだ。そもそも日本では学術的な書評というのがほとんど機能してなくて、内容を要約して思いつきを綴るだけの 小学生の感想文みたいな書評や日本の狭い学者間の人間関係に配慮した当たり障りのない毒にも薬にもならない書評とかが蔓延っている。もちろんネットには素 晴らしい書評が探せばいろいろ出てくるが、影響力は高が知れている(そもそもどの書評が素晴らしいかを判断するのにそれなりの知識が必要だが、知識がない 分野の本にこそ書評が必要となるので堂々巡りだ。ちなみにアマゾンのこのレビューは参考になったか評価は必ずしも当てにはできない)。
1322149887 気まぐれで「<世界史>の哲学 中世篇」を借りて家で何分間かパラパラ読んでみたけど、本当にこの本はゴミ本だな。この著者は昔、数冊本を読んで一時は雑誌の連載を見てたこともあったけ ど印象が悪かったし、もうますますひどくなるばかりだな。教養のない偽ジジェクぶりもどうでもいいし、翻訳どころか日本語の専門書さえろくに読んでないこ とが参照文献からもはっきりと分かって衒学としても低級。日本の知的好奇心を持った人が向かうのがあんなのかと思うと暗鬱な気持ちになる。
1321800747 最近は検索などをしていても、日本のブログのレベルが下がったと感じられることが多くなった。もちろんツイッター に移行して書かなくなった人もたくさんいるし、ツイッターはブログでさえ敷居を感じた人達を呼びこんで一時は質が高かったこともあった(今はクラスター化 による分断を激しく感じる)。だがツイッターだけがブログの質低下の原因でもないように思う。そもそもブログの流行時に参入したレベルの高かった人たちが ネタ切れになったのも原因の一つであり、残ったのはレジメ程度のお勉強ブログや自分勝手なデタラメを書き殴る(アルファブロガーである可能性高しの)トン デモブロガーだったりする。これまでに質の高いブログを書いていた人というのは、(ブログ開始以前の)それまでの蓄積があったから出来たのであって、だと したらこれから参入する人たちにそういう蓄積を伴った質の高さを期待するのは難しいように思う。まぁ、ブログ自体がそれまでホームページに敷居の高さを感 じてた(でも巨大掲示板じゃ満足できない)って人たちが参入してきたのであり、ホームページであれブログであれそもそも質の高い時期など長続きしないのか もしれない。ツイッターはそれらに続く新しいメディアだったのかもしれないが、所詮はあの文字数なのだからホームページやブログに匹敵することなどろくに 書けやしない。ならばせめて日本の出版物のレベルが上がってくれればよいのだが、それもあまり期待できそうにない。
1321713704 なぜか近所の図書館で(廃棄処分ではない形で)アラン・ブルーム「アメリカン・マインドの終焉」がタダで手に入っ たが、これは田舎の図書館にしては上出来だ。まぁ、この本がお勧めできるような面白さを持っているかと言われたらあいまいに首を振るけれど、一昔前まで あった西洋的な教養観を確認する上では面白い資料だと思った。私の場合は西洋的な教養観とこれが書かれた当時の時代背景が何となく分かっているので面白く 読めるけれど、そうでなければエリート臭の強い不愉快な本でしかないし、私でさえここで書かれた西洋的な教養観(ロマン主義的!)には違和感を感じる所も 多い。しかし、日本の混乱した教養観にうんざりした目でこれを読むと納得する点も多い。日本は始めから西洋的な教養と東洋的な教養が混ざっていた点で混乱 の元はあったのだが、それが現代に近づくほど単なる博学や西洋かぶれと区別がつかなくなっていて悲惨な状態になる。西洋的な教養は古典古代の理解と人間性 の完成が含意されていたのだが、日本ではその根本が理解されていない。
最近の日本の教養論をぶつ人たちの教養のなさ(自分勝手な教養観で平気)は 脇に置くとしても、日本の人文学者だって昔は欧米と同じ文学的古典(「神曲」!「ファースト」!シェイクスピア!)を読んでいたかもしれないが、それはむ しろ単なる西洋かぶれと個人的趣味の混ざりあったものであって、西洋的な教養を持っていたかは怪しい(最近は自分のサブカル好きを教養と称する人さえい る)。一時の流行りだったニューアカも含め現代思想系の人たちは古典古代の理解の点ではひどいもので今となっては笑うしかない。西洋的な教養の基本は聖書 とギリシア神話だが、日本でそれに相当するのは儒学と仏教であったが、その点では「論語」を愛読していた一昔前のサラリーマンの方が人間性の完成を目指し ていた点では、日本の下手な人文学者よりよっぽど教養的に見えるというのは皮肉でしかない。日本人が西洋人と同じ教養的古典を読んでも、そもそもの文化的 背景があまりに違いすぎて、教養の本来の目的には遠く及ばない。日本の教養観が混乱しているのも当然のことだ。
まぁ教養に関しては、日本では人文 的教養が政治と結びつくキケロ的伝統がないとか現代社会では教養を身につける余裕のある貴族的な人物がいなくなってしまったとか現代に教養が衰退したのは 大学の大衆化だけが原因でなく人文学が専門化したことも関わりを持っているとか、言いたいことは色々あるけれど、とりあえず今回はここまで。ちなみに、著 者のアラン・ブルームがエリート主義的な教養観を持っているのは、師匠のレオ・シュトラウス譲りなんだけど、あの本を読むだけではそのことは必ずしもはっ きりとはしない
1321625256 ネットで調べ物をしていたら、ウィキペディアの二重相続理論(http://ja.wikipedia.org /wiki/二重相続理論)の項目に当たったのだけれど、これって学術的には「二重継承説」って訳される理論のことだよね。どうりで以前に二重継承説を調 べたときにウィキペディアの項目が出なかった訳だよ。ていうか、この項目は英語の同項目の翻訳だけど、なんで批判の部分だけ訳されてないのかは謎。最近 思ったけど、二重相続理論は進化心理学に対して批判的関係にあって、まぁ遺伝子中心的なその流行の仕方を考えれば、それは理解できるところもある。でも共 進化の部分は進化心理学とほぼ共有できるところで、違いは模倣などの文化的学習を強調することだけど、これは進化心理学と補完関係にあるのであって、別に 排他的な側面はあまりないように思う。トマセロみたいに言語のような具体的能力についての議論でない限り対立に価値はない。遺伝と文化の進化速度の違いに 関しては二重継承説は進んでいるので、進化心理学とうまく組み合わせれば、(普遍的なモジュールか[集団を含む]遺伝的個人差か経験的な差かと区別でき る)よりすぐれた説になれると思うのだが。あと、ここに名前が出てくるハーバート・ギンタスって昔に教育社会学の授業で知った有名な本の著者の一人なんだ と分かって、世の中っで以外なところで繋がりがあるもんだなと感心した。
1321542706 翻訳された一般向け科学書は日本の一般向け科学書よりも全般的にレベルが高い。翻訳の科学書には科学者が書いた本 とサイエンスライターの書いた本があるが、サイエンスライターの書いた本は全般的に質が高くて文献参照などもしっかりしていて信頼できる内容であることが 多いが、正直いって科学者が書いた本に比べると知的な興奮を味わえることが少ないように思う。科学者が書いた本は読みさすさなどで差が出るかもしれない が、当たったときは本当に面白くて夢中になることもある。欧米のサイエンスライターは博士号まである人も多くて知識の点では必ずしも見劣りする訳ではない が、研究者としての理解には及ばないように思う。ライターとして書くか研究者として書くかの違いは如実に表れるようだ。
1321202744 ドレイファスとマクダウェルの論争について調べていて思ったが、ある徳的行為を行なう理由がその状況に対する知覚 にある(自然主義という幽霊 http://www.iwanami.co.jp/shiso/1011/kotoba.html)というのが正しければ、それはマクダウェルの認識論 と繋がりをもっているが、ドレイファスの批判を回避できるようにその倫理的判断について考えると、言語とも思考とも関わりがなくとも常に概念化された知覚 を通して判断していると考えないといけないが(Dreyfus and McDowell, Concepts and Coping http://endsofthought.blogspot.com/2009/03/dreyfus-and-mcdowell-concepts- and.html)、表出された言語も思考の言語(メンタリーズ)も参照できないのに常に概念的能力が働いていると想定する事を哲学的に正当化できるとは どうも思えない。マクダウェルは幼児や動物には概念的能力がないとしているが、表面的には全く同じ行為をしていたとしても概念的能力に違いがあると言える 状況は容易に想像できる(言語を用いなければよいだけだ)ので、この辺は全くもって謎である。かといって、概念の位置づけ(排除?)がよく分からないドレ イファスもさっぱり当てにならないが…
1321202477 ブルーメンベルク「世界の読解可能性」を頼んでまで借りて読んだら、あまりの面白くなさに呆れた、以前に読んだク ザーヌス論や光の形而上学がそれなりに面白かったから期待したけど駄目だった。ていうか、こういう大風呂敷を広げてあれこれを中途半端に論じた雑多な本は ろくなことにならない。衒学ぶりっこの大澤真幸に比べれば、教養があるだけ読めるところもなくはないが、いくら有名な大家でも大風呂敷を広げすぎるとろく なことがない事の一例でしかなかった。あと一緒に借りた落合仁司「トマス・アクィナスの言語ゲーム」は、期待してたトマス・アクィナスの哲学については大 した事が書いてなくてがっかりしたが、マキャベリ論が面白くて、これは哲学の本ではなくて近代政治哲学の本だぞ〜と思ってレビューにでも書くべきかと思っ たら、後半がまたつまらない内容で別にどうでもいいやと思った。つまらん本ばかり借りてしまった!
1320159749 ネット上にある翻訳なども見ながら思ったけれど、トマス・アクィナスの文章は他のスコラ哲学者と比べると論証が少 ない。例えば「神学大全」第二問第一項(http://theologia.jp/prima/002/01.htm[二八三〇六])にはアンセルムス風 の神に関する存在論的論証への批判があるのだけれど、アンセルムスと同時代のガウロニによる批判や後のカントによる批判に比べると、確かに同じような批判 ではあるけれど論証としては弱くて、ガウロニやカントに比べると直接的な引用を見ることがほとんどないのもしょうがないことかなと思う。
トマス・ アクィナスを読んでいて感じるのは、局所的に見ればそれなりに納得できる内容であっても、他の内容も含めて総合的に考えるとどう話を一貫させればいいのか 分からなくなる。実際にトマス・アクィナスに関しては学者によって見解が異なることも多いように思う(例えば認識論的に内在主義か外在主義かや表象説を 採っていたかどうかなど)。もしかしてトマス・アクィナスの背後に一貫した哲学的理論を想定することが間違っているのかもしれない…とまで思ってしまう。
も ちろんトマス・アクィナスが採用している説がない訳でもない(例えばesseの分有説とか類比説とか)けれど(新プラトン主義ほどではないにしても)どう も論証が少ないせいもあって辻褄合わせをしているだけの説じゃないかという印象を抱いてしまう。アウグスティヌスにはさらに論証が少ないけれどこれはスコ ラ哲学とは異なるのだから当たり前だし、むしろ様々な議論のための源泉(例えば三位一体論や時間論など)として価値があるのであり実際にそういう形の参照 を見ることが多いが、トマス・アクィナスは違う。あえて言えばトマス・アクィナスには志向性や人間的行為やハビトゥスなどの現代哲学で論じられているもの を含めた様々なアイデアが含まれているのが長所だが、所詮は論証が弱いので過大な期待はできない。
と言う訳で、トマス・アクィナスに関しては扱いに困っているのだけれど、好きな所や発見がない訳でもないので捨て去る気までは起きないなぁ。

1320159697
トマス・アクィナス「存在と本質について」DE ENTE ET ESSENTIA より
[4] 哲学者が「形而上学」で述べているように、存在には二つの意味がある。一方は10の類に分けられる意味で、他方は命題の真を意味している。これらの意味に は違いがある。二つめの意味では、たとえそれが現実に位置を持たなくとも肯定的命題を形成しうるのであれば、それが何であれ存在と呼ばれる。このように、 肯定は否定の反対であり盲目が目における欠如であるように、欠如と否定は存在と呼ばれる。しかし一つめの意味では、現実に何かが位置しなければ何者も存在 と呼ばれない。だから第一の意味では盲目やこれに類するものは存在ではない。
[5]本質という言葉は第二の意味での存在からは得られないが、なぜ なら欠如の例から明らかなように、この意味では本質を持たないものも存在と呼ばれるからである。むしろ本質は第一の意味の存在から得られる。注釈者は同じ 個所で第一の意味での存在が現実の本質を意味するものであると言っている。
[6]以上のように、この意味での存在は10の類に分けられるので、様々な類や種の様々な存在におけるすべての本性(natura)に対して共通する何かを意味するのが本質である。例えば人間性が人の本質であるなどのように。
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Sciendum est igitur quod, sicut in V Metaphysicae Philosophus dicit, ens per se dicitur dupliciter, uno modo quod dividitur per decem genera, alio modo quod significat propositionum veritatem. Horum autem differentia est quia secundo modo potest dici ens omne illud, de quo affirmativa propositio formari potest, etiam si illud in re nihil ponat. Per quem modum privationes et negationes entia dicuntur; dicimus enim quod affirmatio est opposita negationi et quod caecitas est in oculo. Sed primo modo non potest dici ens nisi quod aliquid in re ponit. Unde primo modo caecitas et huiusmodi non sunt entia.
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Nomen igitur essentiae non sumitur ab ente secundo modo dicto, aliqua enim hoc modo dicuntur entia, quae essentiam non habent, ut patet in privationibus; sed sumitur essentia ab ente primo modo dicto. Unde Commentator in eodem loco dicit quod ens primo modo dictum est quod significat essentiam rei.
6
Et quia, ut dictum est, ens hoc modo dictum dividitur per decem genera, oportet quod essentia significet aliquid commune omnibus naturis, per quas diversa entia in diversis generibus et speciebus collocantur, sicut humanitas est essentia hominis, et sic de aliis.
1320157960 ウンベルト・エーコ「記号論と言語哲学」を再読してたら、トマス・アクィナス「本質と存在について」からの一節の 翻訳が載っていたのだが、それがあまりに分かりやすくて驚いてしまった。翻訳で同一個所を文庫版と集成版で確かめたけれど、どっちも分かりにくい訳だっ た。それで最近、思いきって自分で訳した方が分かりやすくなるんじゃないかと思ってしまった。ネットで調べるとラテン語原文もと複数の英語訳があったの で、それらを比較照合しながら訳そうということになった。とはいえ、私のラテン語能力はとてつもなく貧弱で(あの他の言語に比べたら断然に易しい)格変化 さえあやふやなので、基本的に二つの英訳を翻訳の文庫版と比較しながら訳していって、分からなくなったらラテン語原文も見る程度にすることにした。別に私 は専門家じゃなくて素人なので問題はないだろう。せめてラテン語原文と対応しやすいように、ある英訳に従って原文と翻訳も段落ごとに分けて番号を付けるこ とにした。
…で、文庫版の第三章の入り口辺りまで訳して面倒臭くなってきた。だってトマスのやってることったら言葉の用法の整理ばっかりなんだも ん。signataを分析哲学的に指示されたと訳すとしっくりくるのは発見だったけど、あとはもう飽きちゃった。どうせ似たテーマならボエティウス注釈の 方が面白そうとか目移りして、つくづく自分は飽きっぽいなと思った。

1319124216 渋谷克美「オッカム哲学の基底」を読んでいたら、普遍の例として"色"が出てきたのでアレ?と思って「現代形而上 学論文集」を確かめてみた。サイモンズが色名(赤や黒)を普遍の例として出していないことは気づいていたが、ルイスが色名に普遍者が存在するとは考えにく いと言っているのを見てよりはっきりした。
色名に普遍者はない!
以前にブログのコメント欄でもこの形而上学論文集の解説にある色名を 用いた例文をおかしいと指摘していたのだけれど、その時は色名が普遍だから変だ(類と種を分けるべき)と書いてしまったが、実はそもそもにおいて色名は普 遍の例として間違っているのだと分かった。考えてみると、述定(述語)に関する議論では"赤い"や"丸い"が含まれた例文をよく見ていたので勘違いしてい たが、普遍に関する議論では確かにそうした例文は見かけてなかったな〜と思った(ただし現時点で確認は半端なまま)。
やはり普遍の例と相応しいの は自然種なのであって、色名はプロトタイプ(典型例との家族的類似性)で構わないという現代的な理解法を適用していいのだと分かってホッした。それに考え てみれば中世でも形而上学と倫理学は分かれていたのであり、つまりは自然的領域とそうでない領域は分けて議論されていたのであり、その点では近代哲学は一 度後退してしまったのでは?とさえ思ってしまった。とはいえ、昔は生物種(犬や人間)は普遍であるかのように語られていたが、進化論が発展した現代では生 物種を普遍として捉えることはできなくなってしまった。
1317739991 (状況論を含む)生態学的アプローチなんて(一部の好事家以外の)まともな科学者にはろくに見向きもされないが、 経営学や教育学(看護学も?)のような実学系にはやたらに重宝されている。生態学的アプローチが科学者に無視されるのは科学的に得られるものがほとんどな いからだし、実学系に関しては20世紀に入ってから以降あまり大した進展がない(実際に認識が20世紀の段階で止まっている学者を幾人も知っている)。近 年は生態学的アプローチは哲学者に好まれる事もよく見受けられる。しかしこれだって、20世紀までは計算的な機能主義への批判(=人工知能批判)としての 議論がまだ盛んだった心の哲学も、21世紀に入って(そもそも議論を可能にする形式自体が失われたせいか)生産的な議論が成立しなくなって、その典型例が ノエのエナクティブ(生態学的アプローチの一種)好きに見られる。ノエの議論は生態学的アプローチへの批判に対する反論という消極的な擁護としてはよくで きているが、(常識に訴える以外の)その長所を押し出す積極的な擁護としては弱い。今から考えるとノエの本は心の哲学の隆盛の終焉を示していたのかもしれ ない。
ところで実学系の生態学的アプローチの考え方には違和感を感じることも多い。生態学的アプローチというのは生体と環境との関係を問う方法 で、他の生体にとってはその生体は環境になることから生体間の関係を問うことでもあるのだが、どうも実学系の人たちの言う環境は実学系の対象となる現場に 極端に限定されていて、物事を相対化して見る社会学的思考に慣れていた自分には馴染めない。環境といっても経営現場としての職場に限定するかより広く経済 システムにまで広げるかで考え方は変わる。経営学の人は経営現場の視点から経営の効率化を目指して生態学的アプローチを取り入れているのだが、生態学的ア プローチって別にそういお役立ちのための理論ではないはそもそもない。環境を広くとれば誰もができる効率化があるのなら、誰もがそれを採用することで他社 に対する有利さが失われてしまい、それを採用する長所はなくなる。ベイトソンではラッセル流の論理階型が採用されて環境を広くとることも狭くとることもで きるようになっているのに、実学系の人たちにはその思考法が見られることはまずなくて目標が固定化されている(二重継承説を先取りしていたベイトソンは本 当にすごいな)。(生態学的アプローチに夢中な実学系の人に限って)経営と経済の関係や教育(医療)と社会の関係などにあまりに目が向かないのはどうかと 思う。
だいたい生態学的アプローチはその場の環境(状況)に合わせて生体が対処することを含意しているのだから、外部から学者が役に立つことを言 えると安易に思える事自体がおかしい。だからといって現場の人が一番よく分かっていると考えるのも変で、現場の人は現場のあり方を反省する余裕も動機もな いのが普通であり、たとえ考えたとしても現場のあり方に毒されている当の本人なのでそのままで環境(状況)ための役に立つ訳ではない。だから外部から来た 経営者などが現場を変えて改良することもありえるが、現場と関係のない頭だけで考えた理想的なシステムを単に実現しようとしても失敗する事自体が生態学的 アプローチからも導ける(現実のシステムの頭で考えられたシステムよりもずっと緻密で複雑にできている)。どうも実学系の人達は生態学的アプローチとは本 来は(主流の方法への批判を含んだ)科学的な意図を持った試みだったことを理解していないようだ(ちなみにギブソンには当時の知覚心理学の研究への批判が きちんと含まれていたが、その批判はある程度を取り入れられたの、で今でもそのままで成立する訳ではない)。まぁ同じ事は哲学者にも言えるのだがあまり 突っ込んでも得られる物がほとんどないので虚しい。
これで文章を終えてしまうのは本当に虚しいので、この方面の今でも活躍している真っ当な学者を挙げると福島真人がいて、 「学習の生態学」では状況論がなぜ停滞したのか(批判という形でしか意義を持ちにくい)も考察していて悪くない。
1317219299 最近、手元にある(古楽もモダンも込みで)様々な演奏のハイドンの弦楽四重奏曲を(それほど数はないが)聞き比べ ていてやっぱりフェステティチすげぇな!という結論達していたのだけど、ついでに気が向いてネットで調べてみたら、フェステティチのハイドンは駄目って評 価しているブログ(わざとリンクは貼りません)があって、その時はまぁ好みの問題もあるからなぁ程度に思っていたのだが、しかしそのブログにはそのCDは 録音が悪いともあっておかしいと思った。以前に見た録音の評価を主にしたブログがあってそこではむしろ高評価だったのを思い出して (http://dominant7th.blog83.fc2.com/blog-entry-250.html)いや〜な予感がした。そこでハイドン の古楽演奏に関して自分の評価とほとんど同じだった、愛読してた古楽ブログを検索して同じ演奏団体を扱った記事 (http://seeds.whitesnow.jp/blog/2008/09/08-202506.htmlあとhttp: //seeds.whitesnow.jp/blog/2004/06/23-000100.htmlの末尾も参照)を再読して、その予感は確信へと傾き 始めた。改めてフェステティチ悪評価ブログを読むとどうも自分の好き嫌いでしか語っていないし、録音評価もその人のオーディオシステムのせいであるようだ (当人も認めている節がある)。自分の好き嫌いのみで語る奴って自分の大嫌いな日本のクラシック評論家の特徴そのものであることを思い出して、素人でも同 じような奴っているんだなと思った。別に言葉でもっともらしい説明できるから分かっている(鑑賞力がある)って訳では必ずしもないけれど、でもあまりに明 らさまに自分の好き嫌いでしか評価を書けない奴もどうかと思う。自分が感じたことを(もっともらしい紋切型でなく)何とかして言葉にしようという努力さえ 感じさせない文章って信用できない。
私でさえモザイク四重奏団の演奏は(好きではあるけれど)あんまり古楽っぽくないな〜程度には思っていたが、 フェステティチ悪評価ブログではモザイクもフェステティチもモダンっぽくてクイケンが最高とあったけど、(既に紹介した古楽ブログも参照してほしいが)そ れってハイドンの音楽の特徴を分かっていない荒い評価だと分かる。古楽=響きだけという評価は本当に安易でどうかと思う。古い楽器を使ってればいいとか響 きが古楽っぽければいいとかそういうのが問題じゃなくて、その曲の本来持っていた魅力を引き出す事こそが古楽革命の本質だったはずだ(この点は以前に紹介 したアーノンクールの本を読むとよく分かる)。そう考えてみると、どことなくメロディックなモザイクに比べれば各声部がくっきりと弾き分けられているクイ ケンの方がハイドンの演奏としてはもしかしたら相応しいかもしれない。しかしクイケン四重奏団のハイドンは聴いてる内に退屈に感じてしまう(同じクイケン でもモーツァルトの演奏ではそんな事ないのに…)。フェステティチ四重奏団の演奏で響きがシンプルなのはハイドンの四重奏団に特徴的な各声部の弾き分けの 点からするとむしろ長所なぐらいだし(既にリンクした「好録音探求」も参照)、それにハンガリーの団体のせいか(アダム・フィッシャーのハイドン交響曲全 集を彷彿とさせるような)ハンガリー的な音楽の魅力もあって(各声部の聴き分けをするような大変な聴き方をしているはずなのに)聴いていてとても楽しく、 この点は他の古楽演奏に時々見受けられる生真面目なハイドン演奏とも一線を画する。同時代の他の古典派作曲家と比べても、今でも古楽もモダンもどっちもあ りじゃないみたいなモーツァルトとも、古楽によって蘇りはしたけれど今もってモノラルの古くさい演奏(ボッケリーニ五重奏団)こそ最高かもと思ってしまう ボッケリーニとも違い、ハイドンは古楽革命によって魅力が蘇った典型的な作曲家だが、もしかしたら古楽革命の意義を理解しているかを測る試金石としてもハ イドンは優れているのかもしれない。
1317107934 今日9/27のTBSラジオ「キラキラ」のコラム・コーナーに國分功一郎が三回目の出演を果たしたのだけれど、過 去のコラム内容からこの人は(学者としては優秀かもしれないが)ラジオ向けじゃないから出演は止めた方がいいんじゃないかと思っていたが、今回のコラムは 受けれられやすいテーマで分かりやすい内容だったのでなかなかよかった。とはいえ、私としては昔の現代思想や宮台真司を通して馴染んでいた話なので目新し さはなかったが、まぁ私のことはどうでもいい。今回の内容は感覚を満足させる浪費とブランドを取っ替え引っ替えする消費は違うという話をボードリヤールを 紹介しながらしていた。お馴染みの現代思想的な消費社会論なのだけど、感覚を満足させる浪費は素晴らしいという逆説的な言い方はうまいと思ったし、その辺 りの意見はドゥルーズ好きを思わせもした(消費なしでどう経済を成り立たせるのかよ!的な「環境保護vs経済成長」みたいな対立に潜むのと同じ問題が考慮 も解消もされていないところは大目に見よう)。
ただし、あまりに昔ながらの消費社会論すぎて古くさい感も拭えなかった。ネット社会の到来によって ボードリヤール的な記号消費(自分の感覚で味わずに消費するだけ)から晩年のドゥルーズが批判した情報消費(自分で考えずに消費するだけ)へと大きくシフ トした感じもあり、00年代をも越えたのに未だに自分探し批判かよ!ってところもなくもない、その点では佐々木中の情報消費批判の方が時代に追いついてい る気がする。佐々木中が情報概念を中世にまで遡らせるのはやり過ぎだと思うが、時代を読む敏感さの点では佐々木中が断トツに上だ。まぁ、情報消費批判から 表現万歳へと向かうのは自分的には疑問だが(表現すべき自分があるはずとするのは自分探し再来じゃん)そこは大目に見よう。
てか、こういう現代社会論みたいな評論家気取りは(誰でも評論家っぽくなれる時代に評論家気取りすることへの疑問は脇に置くとしても)自分でやっていても楽しいところもあるのだが、でもこれってやっぱり哲学とは異なる試みだよなぁ〜
1316846139 マクダウェル記事を少し修正して付記も付けた。てか、読んでる人ほとんどいないからここに書いても無駄だな。でも、ツイッターで宣伝する程じゃないなぁ
1316755541 近年の哲学的な流行というとメタ哲学なんだけど、どうも哲学の存在意義を問う自意識過剰な試みに思えて好きになれ ない、それが無意味だとは思わないが、私には不毛な感じがすることが多い。哲学なんて必要なくなれば勝手に衰退して忘れ去られるだけだろ!程度にしか自分 は考えていない。哲学に進歩はあるのか?とか哲学は科学にとって変わるのか?とか哲学者の直観など信用できない!とか、疑問としては理解できるのだけど、 そんな質問に答えがでるのかい!とかそんなの時が判定してくれるだろ!みたいにしか思わない。現在の哲学に文句があるなら、新しい哲学的試みでもしてみれ ばいいんだし、それも駄目と思うなら哲学を見捨てても誰も文句を言わない。まぁ、職業的な哲学者からするとそんな訳にもいかない(失業!)ので哲学の存在 意義を何とかして主張したいのかもしれないけれど、だとしたらこんなの内輪の大騒ぎでしかないことになるから、やっぱり門外漢にはどうでもいい話でしかな い。あ〜ぁ分析哲学の最盛期はとっくに過ぎ去ったんだなぁ〜とさえ思ってしまう。手段なき独りよがりなおしゃべりは哲学じゃなくて思想でしかないからと馬 鹿にしてたけど、かといって目的への意識のなくなった自己目的化した哲学も虚しい。
1316755451 そういえば、石原都知事が再選されて以来ネットでの政治論争には冷めてしまった。あんなにもネット上でギャーギャー何度も騒いでいてもこれ程に影響力がないのなら虚しいわ。
1316617703 「マクダウェルと認識論に関する私論」を書いてみた。長くなったのでブログの記事として出してみた。ここを読んで いるような奇特な人は覗いてみてもいいかもしれない(ただし読みやすさへの配慮は最小限しかしてな い)→http://thinkcogscijapan.blogspot.com/2011/09/blog-post.html
1316230418 ここ数日は熱が高くなったりならなかったりで何かを書けるような状態にはなかったのだが、いざ体調が安定してきて みるとあまり物を書く気にはなれない。そういうことして結局は何を書こうとしたかさえ忘れてしまった事も何度もあるので覚書をしておくと、ヘーゲル主義者 マクダウェルについて(またはマクダウェルとドレイファスのいいトコ獲りなノエはとんでもねぇ)とかパースとセラーズのイギリス経験論批判について(また は近代哲学の普遍問題へのぞんざいな扱い)とかトマス・アクィナスの解説書はどれも偏ってるような?(またはスコラ哲学のテキストちゃんと読めてる奴って どんだけいるんだか)とか。特にマクダウェルが観念論者であることが分かるとノエのご都合主義には怒りさえ覚えるのだが、その怒りを記事にする気力も既に ない(とはいえ当のマクダェル自身に揺れがあるからややこしいのだが。でもねぇ、概念と実践をそんなに簡単に結びつけられるなら誰も悩まないよぉ)。
1315320541 近所の図書館に行ったら、副題に認知考古学が銘打たれていた「古墳とはなにか」という本があったので、興味を持っ て中を覗いたらこれが食わせ物だった。古墳に関する歴史的話ばかりが書かれていて「認知」の話なんて見当たらない。やっと見つけたと思ったら単なる憶測。 他の科学的成果への参照がないどころか、めぼしい文献への参照さえない。日本語で訳されているのに限っても、ミズン(マイズン?)やボイヤーやデネットと かいろいろ参照できそうな文献はありそうなのに、名前さえ見当たらない。これは単に考古学の本であって、認知云々とは何の関係もない。こういう訳の分から ないタイトルに偽りありの著作を学者が書くのはやめてほしい。
あ〜そういえば、安西祐一朗が岩波新書で認知科学入門を今月出すらしいが、既に研究の第一線から外れてから長く感じるのだが、一体どんな本を期待すればいいのだろうか(歴史的な回顧で入門を謳うのは変だしなぁ)?
1314896023 shorebirdさんが進化心理学の根本的な問題に興味がないのなら、私が突っ込むのも虚しい、何でも実証的に 解決すると思い込んでるならそこも突っ込みません(認知科学の基礎に興味を持った私と何と違うことか!)。shorebirdさんに軽く見られる程度の科 学知識な科学哲学者ばかりみたいだけど、そこは頑張ってもらうしかないよな。
1314890574 ところで、ネット上で議論を調停しようとして首を突っ込んくる奴って、実際は議論をますます混乱させてるだけなこ とがほとんどだよな。今回は私が既に認めたことを別の形で書き換えて私への対応であるかのように書いていて、正直言ってむかつく(モジュール「群」の話は 議論の的になってないっての!)。忠告しておきますが、ネット上で議論を調停しようなんて不遜な事は考えない方が妥当です。議論をメタ的に眺めている気分 に浸ってるのが気持ちいいだけな可能性が大。本当に議論を客観的に整理するだけってのは実はとてつもない労力がいる面倒なこと(自分の見解や偏見は一切除 かないといけない)だって分かってる方がいい。
1314888867 前回のはてなハイクを公開した後に、とうとう我慢できずにshorebirdさんのブログにコメントを書く。ブロ グにコメントを書き込む事自体が久しぶりだ。私がああいう冷めた客観的な書き方をしている時は、たいてい私が怒っているのが原因です。前にも触れたが、 shorebirdさんは進化生物学に関しては専門家レベルだが、残念ながら進化心理学に関してはそれに遠く及ばない。あとは某氏のコメント(あの内容 じゃねぇ〜)と違って無視され続けないことを願うだけです
現時点で、shorebirdさんの返答がつく前にMo-rinさんのコメントが既にあ るが、正直言って面倒臭いな。あれに答えると議論がゴチャゴチャになって分からなくなるから、ブログ主のコメントがつくのを待つつもりだ。てか、あれはい ちいちいち答えるのが面倒なコメントだな。定義か基準かって、それが基準に選ばれていたら定義だとしても変じゃないだろ!モジュールの範囲は既に緩く採っ てるっての(揚げ足取りだな)!リサーチプログラム云々まで持ち出されたけど、そもそも一般知能の存在が否定されている議論があるみたいな知能論の基礎か ら始めないといけないのか?論文の参照部分も見たけど大した事書いてないな。私がウィキペディアの記事を悪く言ったから反感を抱いているだけな可能性も高 いので、その点からもますます私があそこで反応するのはマズイ気もする(議論の勝ち負けに焦点が当たるのはマズイ)。決して変なコメントではないが、でも 残念ながら無視せざるをえない。
1314715556 私は既に述べたことを繰り返すのが面倒だからしない。だから、ネットを見てると基本的な事柄に関しての誤っている ことが書かれているのを何度も見ることが多くてうんざりするが、特にそれに対して何もしない。面倒だからというのもあるが、私のような一素人ではなくちゃ んとした学者先生に何とかしてもらいたいし、影響力その他の点からもそれが一番相応しい。私は自分にとって問題が解決できればいいのであって、ネットにそ れを公表するとして親切か気まぐれ程度でしかない。
進化心理学ブームへの反省は私の中では既に終わっていて繰り返す気はない。しかし(進化生物学 に関してはエキスパートである)shorebirdさんが進化心理学について書いていることがすべて鵜のみにされるのを見るのは忍びない。進化論が単なる 生得主義でないことは正しいと思うけど、別に人の経験的な違いを積極的に説明できる訳ではない(単に認めているにすぎない)し、じゃあミームは?と言われ ても未だにそれを真面目に研究してる学者はあまりいない(まともな研究法もろくにないがそれ以前に淘汰単位が謎。だいたいミームの考え方は進化論そのもの から導かれるのではない)。人の能力が進化によって生じたという考え方も、進化を広くとれば当たり前のトートロジーでしかない。つまり「すべての生物は進 化によって生じた」→「生物である人も進化によって生じた」→「人の能力は進化によって生じた」→「言語能力は進化によって生じた」…となるが、単に当た り前の事で何も内容がない。これが成り立つなら「ピアノを弾く能力」も「ボタンを押す能力」も進化によって生じたことになるが、ピアノもボタンもある時代 以降にしか存在しないのだから、文字通りに受けとると馬鹿らしい。そういうことができる潜在的能力が生じたと言い換えても、単に何とでも言える感(何がで きるようになろうとも潜在的にあったと言い張れる)が強くなっているだけだ。能力に関して本来の機能と派生的機能に分けるにしても、何が本来の機能なのか なんてことは自明なことなんかではない(だから言語進化に関しては論争が絶えないのだ)。(広い意味での)進化によって生じたかなんて話は既にどうでも良 くて、何でも進化(特に適応)によって説明できるなんて万能感(残念ながら生物学系の人にしばしばいる)はとりあえず捨て去り、具体的な証拠に基づいてど こまで言えるのかを考えるしかない。
1314371797 稲葉振一郎の『斜めからみる「日本のポストモダン教育学」』を読んじゃうと、未だに(ネオリベ反対風味が新たに加 わってるだけの所詮は)ポストモダン気分に浸っている佐々木中が甘く見えてくるわ。ネットの連載に(エッセイではなく)こんな本格的な論文を書いてしまう 所も含めて、稲葉振一郎は誠実だなぁ。ただこの論文を最後まで読んでもモヤモヤが残るのは、見事な歴史的な整理がなされた後の総括の結論部分が尾切れトン ボみたいに切れてる気がするせいかな。この最後からすると、規律訓練や環境管理を(他の選択肢も考慮した上での苦渋の選択として)肯定している感じがす る。まぁ、集合知バンザイみたいなどっかの馬鹿論者(進化論でも一から勉強しろ!)よりは格段にいいけど、単に福祉国家(中央機関が何とかすべし!)の肯 定に戻ってしまっているようにも見えて、それじゃ何でこれまでネオリベ的な市場主義への動きが激しかったのかが考慮されてなくて、それはそれで違和感を感 じる(徳倫理では対抗できる解決策にはなりえないという指摘は正しいと思うが)。でもこの話を進めると(単なる反近代は近代を裏で支えてるだけにしかなら ないので)西洋的な近代とは異なる別の近代とは何か…みたいな話になるが、こんな壮大な話をここでする訳ないだろ。
あと、シノドス連載第三回の 「人的資本論=教育投資論とシグナリング/スクリーニング論は相互に矛盾するものではない」以降に関して。「大卒以上層と高卒以下層との賃金格差が縮まら ず」とあるが、格差が縮まらない事は大卒者の賃金が引き下がっていないことを意味しない(高卒者が就いていた職業の上澄みを大卒者が奪い取っただけでも格 差は拡大したことになるが、別に大卒者の賃金が上がったことを意味しない)。その後のシグナリング/スクリーニング論の記述も、これはシグナリング/スク リーニングが単なる短所ではない事を示しているだけで長所を示している訳ではない(企業にとって学校の選別機能が便利な不可欠のものになったと言っている だけで、学校が人の能力を伸ばしていると言っている訳ではない。てか、シグナリング/スクリーニング論から学校は非生産的で無用だという結論を導き出す事 自体が議論の飛躍で分かってない人の言い分かな)。
あと、連載第一回で言ってるのは、理念としての近代と事実としての近代を分けましょうって話 で、近代を肯定してるとか否定しているとかそういう結論は導かない方がいいと思う(最後まで読めば著者の近代への態度が両義的であることは分かるはずだ が…)。それから、以下の引用は宮台真司が社会学を見捨てて政治哲学に走った理由の一端と同じ事のように思える→『1990年代以降、教育社会学者のみな らず、(規範的)教育学者まで含めて、ニクラス・ルーマンが広く注目を集めたのは、こうした「社会学そのものの自明性を解体しようとする社会学」を彼が構 想しており、その立場から既存の社会学による規範的教育学や法解釈学への批判を痛打した——教育学や法律学がドグマティックであらざるを得ないことには理 由があるのに、素朴な社会学はそれに気づかない——からであろう』(以上シノドス連載第一回より)。
1314201525 ネット上を探すと、その人の関わっている本は素晴らしいのだが当の本人自身の意見は相当に偏っていて引いてしまう編集者が幾人かいるのだが、そういうタイプの人って編集者以外でもいるんだなぁ…とある人の活動と記録を見て思った。
1313853574 私が見かける日本の論者で教養がないと感じる人の典型として、経済学系の論者と現代思想系の論者がいる。ここで私 が言っている教養とは昔風の文学的教養のことではなくて、西洋的な基礎知識のような古典的教養を指しているが、残念ながら佐々木中にはその匂いがすると言 わざるを得ない。日本の経済学系の論者に教養を感じないとしても、経済学が専門家した学問なのでまだ許せるところがある(どうせどの学問分野も遅からず同 じ状態になるだろう)が、日本の現代思想系の論者にそうした教養がないように思えるのはかなり問題がある。なぜなら現代思想は基本的に人文学であり、人文 学にとって西洋に関する基礎知識なしでやることは、それをためにやっているにかに盲目になることなので、とんでもない勉強不足に思えてしまう。佐々木中は 過去の現代思想論者と違ってジャーゴンを振り回すカルト信者風ではそれほどないのは好印象だけど、それでもやはり西洋的な教養に疎いという欠点からは逃れ られなくなっている。実は日本のフーコ論者によくいるような生権力論好きな偏見があるのは置いとくにしても、やはり大きな問題はルジャンドル理解にある (そしてそれはラカン理解にも関わりを持つ)。よく指摘される情報概念の過大適用にも当てはまることだが、どうもルジャンドルが課題にしている西洋的な近 代の問題を適切に理解しているとは思えないところがあり、それは西洋の出来事に過ぎない中世解釈者革命を日本にも安易に適用しがちな点に代表される。変更 可能な言語化された法(実定法)を世俗の側に置くことで政教分離をはかったことが、いかに近代化に深い関わりを持っているか(そしてラカン的な精神分析が いかにその延長にあるのか)に関連している。むしろ問題にすべきは日本では法律を自分たちの手で作ったり変えたりできるという感覚が希薄であることである はずなのに。西洋というものをまともに理解しようとしないから、西洋の日本との本質的な違いに目がいかず安易に同じ図式を当てはめたり、日本は西洋とは全 く違うと無闇矢鱈に言い張ったりすることになる。少なくとも人文学の最重要課題が西洋的近代とは何か?にあることはもっと理解されないとどうしようもない と思う。
それにしても、ルジャンドルによる法の言語化の話は科学における数量化(又は文献学的なテキスト化を含めても良い)や経済における貨幣と 合わせて考えると、単なる西洋化とは異なる近代的システム(法システム・科学システム・経済システム)がどのようなものかを考察するのに役に立つ。
1313853509 ミンスキーへのインタビューを読んでたら、集合知バンザイな奴等に対してそうした集合知は進化によって生じたのだ からそこに至るまでにたくさんの犠牲があったんだ…と指摘しているのを見て最もだと思った。あと、近年の見た目だけのロボット研究を批判していて、思った 以上に古典的な人工知能に近いことは面白いと思った。ミンスキーはあくまで賢さにこだわっている(だから単なる統計やデータベースの使用には冷たい)のだ けど、その視点からするとこの30年が停滞になってしまうのもしょうがないよな。
1312902982 ブルーバックスで新刊で出た進化心理学の本をのぞいたが、あれは進化論の風味を加えた認知心理学の本と言う感じで 相変わらず薄い印象しか抱かなかった。モジュール論には言及していたので懸念は払拭されたが、及第点を与えられる程度でしかない。むしろ同じ著者が書いた 光文社新書で去年でた進化心理学入門の方がお勧めできる。こちらは進化生物学寄りの説明でこっちの方が内容は充実している。でもまぁ、この人の書いた本は 妥当な内容だがどことなく教科書的な印象が強くて、面白いかと言われると返事に窮する(一般向けとしては読みやすい方なのは確かだが…)。
佐々木 中「永遠と夜戦」が文庫化されているのを見つけて、興味のある部分を中心にのぞいてみたが、いい本だとは思うがやはり現代思想好きにしか勧められない本だ なと思った。こちらのサイトの書評(http://gnosticthinking.nobody.jp/hommage038.html)が素晴らしい が、私も読んでみた結果、結論が性急だという同じような印象を抱いた。晩年フーコーへの無理解(ドゥルーズのフーコー論を参照してるのに!)はこの人に 限った話ではないので置いとくとしても、やはり気になるのはルジャンドルの扱いだ。情報概念の粗雑さへの批判もあるがそれはいい(軽い言及しかない)とし て、この本を読んでいるだけでもルジャンドルって佐々木中の求める方向とは違うんじゃないの?と感じてしまう。私の印象ではルジャンドルは欧州的な意味で 保守的であり、孤立した自由な個人を批判する点でサンデルの共同体主義にも近いものを感じた。これって自由なテキスト生成バンザイみたいな方向とは全く相 容れないのでは?他にも所々で議論が飛んでいるように思える(えっ!そこからそういうこと言えるの?)所も見受けられるが、全体としては現代思想本として よく出来ていると思う。これが現代思想の現時点での到達点(逆から見れば行き止まりかも)じゃないかと思うので、人文学好きで根気のある人(上下巻の厚い 本です)にはお勧めしたい。
ミラーニューロン研究と模倣研究は同じじゃないどころか齟齬さえある…とか余計な話はしないぞ
1312902920 ツイッターが新しくなってしばらく経つけど、自分には全然ダメでやりにくい。クライアントソフトその他はしばらく 使ってからやめてしまった過去があるので、あまりやる気がしない。もともとツイッターとは相性の悪さを感じていたから潮時かもしれない(まぁ一つだけ ちょっと気に入っていたウェブクライアントがあったからそっちで覗くかもしれないが、積極的にはやる気が起きんな)
1312384249 ブルーバックスで進化心理学の本が出るらしいが、何であの人が著者かよく分からん。少なくとも特に専門という訳で はないはず。この人は以前に認知科学概論みたいな本を見たことがあったが、概論としては別にいいんじゃないの(薦めたくなくなる程ではない)程度の薄い印 象しかない。進化論の理解レベルはどうせshorebirdさんがレビューを書くだろうからそれに任せるとしても、問題は進化心理学の範囲をモジュール論 よりも広くとってるんじゃないかという懸念だ(心の進化論的理解みたいに言えばいいのに)。この点はshorebirdさんには頼れない。日本の学者が書 いた一般向けの本で自分が英語圏で見ている知識と違うもの(どっちが信用できるかなんて聞かないで!)って案外見かけるものだが、またそれが該当するん じゃないかと(そんな事態には慣れてるとはいえ)不安でならない。
1312384190 最近たまにアマゾンでTVゲーム評をみるけれど、ゲームサイトに比べるとアマゾンのゲーム評では見当外れな意見が 目につくことがそれなりに高い確率である。それでもアマゾンは便利なので見てしまうが、レビューは中身で判断すべしと言う点は他の商品と変わらないので慣 れれば気にはならない
ゲーム評の不当さはハードなゲーマーかライトなゲーマーかに関わらず見られる。ろくにゲームもやらずに非難する奴も困るが、過去や他の傑作と比較してダメダメばかり言う奴も当てにならない。
見当外れなゲーム評…その1:ゲーム性の違いを無視して過去の傑作と比較して罵倒する(全然違うゲームになってるじゃんか!)。その2:プレイの仕方(例えば戦略やテクニック)で十分に克服できる要素を欠点として非難する(マジにこのゲームをプレイしたのか?)。
1311484333
「イカの心を探る」はよく出来た面白い本ではあるけれど、NHKbooksによくあることで(読みやすい 文章にはなっているのだが)基本的に地味で専門性が高い内容なので、素直に一般向けにお勧めといい辛いところがある。興味のある人には是非とお勧めするけ ど、そうでなければ微妙かなぁ〜。
ちなみに、(神経)発達研究と比較(動物)研究はこれからの発展の余地があって将来の期待される研究領域だ ぞ〜…と一応書いとこう(社会性研究の方面は[人文社会科学系と自然科学系との間の様々な乖離も大きく]まだ混乱が続きそうで素直に期待が持てるとはとて も言えない。もうちょっとちゃんと書くと[未開拓性と研究可能性を考えると]単なる脳研究というよりは発達(個体発生)への関心、同じ進化でもこれまで流 行った[証拠が出しにくい]適応論ではなく系統発生論への関心、が高まるだろう(既にしてる?)と感じている。あとさぁ、心を環境にまで延長する考え方 は、元を辿れば1990年代に流行ってたけど、その後2000年代以降は進展があまりないし一部の哲学者がもてはやしているだけの状態だから、将来性はあ りそうにない(独自の展開でもしてもらうしかない)。もし本気で(延長された心を)哲学的に問う気ならば、外界は存在するかのような面倒な認識論的な問題 とかにも触れてもらわないと納得できない(外界を単なる刺激の束にしてしまっても様々な説明はつくんだからさぁ)。認知科学であれ進化生物学であれ以前の ような内部対立の敵対視(主流批判!)は不毛なだけだからやめてくれ。
1311088459 前までは市場こそがすべてみたい意見が目立ったのが、最近は政府がしっかりしろみたいな意見を見ることが多くて、 市場vs政府みたいな対立のとらわれすぎだと思う。地方分権(地域主権)みたいな分散的なやり方は大事だ。災害や原発の話を聞いてると、中央集権的なやり 方の方が効率的だと思っている人が日本には多いように思うが、それは根拠のない幻想だ。経済か政治かの対立と一極か分散かの対立とをきれいに重ねすぎ。す べてを公平に収めようとしてなかなか進まないのは馬鹿らしい。日本では公正と公平の違いが分かってなさすぎな人多し。
1311088351 あるテーマで日本語で読める本で素人が読めるものでは偏ったものしかないみたいな事態はよくあって本当に困る。こ のまえ取り上げた(売れているらしい)キリスト教の社会学的紹介の本もそうだけど、全然ダメってほどじゃないけど(偏っていて)褒めるほどの出来でもない がかといってそのテーマについて日本語で読める本で他に勧められるのもない…みたいな事って案外と多くて困る。単にその本を貶してそのテーマに興味を持た れないのも嫌だし、かといってこんな偏った本を知識のない人に紹介して偏見を持たれるのもやだなぁ、と困ってしまう。最近でたギブソンを軸にした哲学的身 体論も偏っているけど他にマシな選択肢があるわけでもないしなぁ。
1309702946 少し前にアリストテレスの「自然学」という著作を眺める機会があったが、それを見ていたら現代では形而上学で扱わ れる問題(例えば全体部分問題や時間問題)が自然学で扱われていたことに気づいた。つまり現代では古代における形而上学と自然学の問題がまとめて形而上学 で扱われている事が分かった。存在の学としての形而上学(メタ自然学)と生成の学としての自然学という違いは現代では重視されず、自然科学を越えた問題を 扱うメタ自然科学として現代の形而上学が成立していたのだと気づいた。まぁ、考えてみればアトム論が自然学だったのだからとっくに気づいていてもよさそう な事ではあったのだが。という訳で、これは以前だした形而上学入門の目次の序論あたりに付け加えてもよさそうな項目だよなぁ…と思った。
1309532191 日本の有名な某哲学者に著作を認められたという若手の哲学者がいるのだが、ネットにあった彼が書いた論文をいくつ か読んだのだが、そのあまりの筋の悪さに困ってしまった。日本の学者が書いた分析哲学の論文はいくつも読んでいるが、それらと比較しても相当にひどい部類 に入ってしまう。なんでこんな人が評価されたのか?と疑問を感じてしまった。
実はこの人に限った話ではないけれど、なんで日本ではこんな大した事 のない学者が評価されてしまうのだろうか?と疑問を感じてしまうことがよくある。私が言っているのはいわゆる評論家っぽい学者(そういう人は既に学者でさ えなかったりもするが)のことではなくて、普通の学者で著作が評判になっている人でそれを読んでみると質の悪さにがっくりしてしまったりする。哲学の場合 はその傾向が特に強いように思う。とはいえ、そういう人の本にはファンがついていたりもしていて、自分には利害関係がないとはいえ(やっかみと勘違いされ そうで)批判も出しにくい。
1309368512 shorebirdさんは今読んでいる洋書で進化心理学とはモジュール論的な議論であることを理解したのだとてっ きり思ってしまったが、新しく書かれた別の書評を見てたらやっぱり自分が気に入っている心に関する進化論的な議論ならなんでも進化心理学って呼んでる癖が 変わらないことに気づいてあきれてしまった。shorebirdさんは進化生物学に関しては超一級だけど、ちょっと領域がズレる(つまり進化心理学は認知 科学寄り)と偏見を免れないんだと痛感した。
これに限った話じゃなくて、ネットなどで基本的な認識が間違っているのを目にすることがずっと多く て、一時は誤りを指摘してたこともあったけど、それは嫌がられる上にこっちが疲れるだけなのですっかりやめてしまった。まぁ、知覚の表象説と知識の表象説 の混同なんて、日本の哲学者によく見られることに関しては既に諦めてる(日本で相互批判なんてされない)けど、ノエにさえその傾向があって、誰にも突っ込 まなかったのかよ!と思ってしまう。
1309189940 例によってツイッターなつぶやきを書き溜めて出す気なくしたもの。てか、立ち読みだけでの本の評価なんて信用できるかよ。内容を膨らませることも可能かもしれないが、面倒だぁ

新 書「おかしなキリスト教」を立ち読みしてて、全く駄目な本ではないにしても首を捻る所があちこちにあって微妙。アマゾンでは知識のない人には褒められいて 知識のある人には軽視されてるけど、それって(科学的な本を考えれば分かるように)この本がそれほど良くないことを示しているのでは?
信仰の点か ら書かれたキリスト教入門が日本人には分かりにくいという指摘は理解できるが、だからと言ってこの本の社会学的な入門がいいとも別に思えない(少なくとも 重要なところでのツッコミどころが多すぎる)。自分だったら文化的な側面から書くなぁ(自分の知識など高が知れてるから書く気ないが)
一神教の神 を恐ろしい神って定義してるのはあまりに安易ではないか?キリスト教とユダヤ教がほとんど同じってのもツッコミどころがあるが置いておく(ヘレニズムとヘ ブライズムの話は始めると面倒臭い)。あと、キリスト教って偶像崇拝の禁止はたいして守られてないから、その点では一神教としては弱い
一神教と多 神教の神の違いを理解するには、祈りと願いの違いが分かると良い。日本で祈願というと願い色が強い。一神教の神は祈るものだが、祈りの側からすると、お願 いすれば叶う神という考え方の方が馬鹿らしいものに思える。願いの文化的役割は分かるけど、その考え方はあまりにご都合主義的だ
あの本の科学と宗 教の関係図は面白いが、あの説明じゃむしろ科学の側の人が納得いかないのでは?ID説は経験を軽視しているが、科学の世界でも経験主義は必ずしも守られて いなくて、少ない証拠から過剰な一般化がされることもよくある。科学であれ宗教であれ経験主義が守られないことが衝突の原因の一つ
キリスト教に よって近代化が可能になったというような社会学的−ウェーバー的な考え方ってどうかと思う。それだと日本で近代化がうまくいかないのは宗教のせいだとなる が、そもそもなぜ日本ではキリスト教が普及しなかったのかが説明できてないので、説明すべきことを後退させているだけにしかならない
それから、キ リスト教ではヘレニズムとヘブライズムが中途半端にごっちゃに混ざっているので、そこから遡って元々のヘレニズムとヘブライズムがどんなものか理解しよう とするとかえって分かりにくくなる。例えば神学ってのはヘレニズム的な要素が強いのであって、あまりヘブライズム的とは言えない
まぁ、ヘレニズム といっても古代ギリシア・ローマ哲学の中でも(ストア派やエピクロス派と比べて)プラトンやアリストテレスは特殊な感じも強くて、あまりヘレニズム代表と は言えないような。あと、新プラトン主義やグノーシス主義やアウグスティヌスは対立は表面的で、外から見るとそっくりの思想だが、これをヘレニズムとヘブ ライズムとは別にキリスト教の源泉にいれてみるのもいいかも
1309189870 ツイッターってブログほど公的でもなくSNSほど私的でもない個人的なやりとりをするのには便利だけど、それ以上 を期待しちゃダメだな。ブログとツイッターの中間みたいなサービスがほしいなぁ。他にめぼしい選択肢がないからはてなハイクは暫定的に使ってるだけだか ら、それほど便利とも思っていないしなぁ
1303056924 分析的形而上学ー要約的概論ー
序:形而上学とは何か
二つの形而上学の系譜ーアリストテレス形而上学とプロティノス形而上学ー
現代形而上学の古代と中世にまで遡る伝統ーカテゴリー論とアトム論ー
その他の形而上学的問題ー心身問題と神の問題ー
1:普遍問題
二つのrealismー観念論vs実在論、唯名論vs実念論ー
極端な実念論としてのプラトニズム
プラトニズム批判ー第三人間論と極端な唯名論ー
穏やかな実念論ー科学的実在論としての実念論ー
原始概念によって唯名論を論理的に構築するークラス唯名論ー
共外延問題に答えられる唯名論はあるのかー可能世界唯名論とトロープ唯名論ー
普遍問題を否定する立場としての反実在論ー精神から独立した世界など存在しないー
付:本質、第二実体、自然種、事物様相ー存在論的四角形ー
2:包括的な存在論を探求するー因果・様相・真理などの問題に答えるー
事態存在論ーチザム、プランティンガ、アームストロングー
可能世界存在論ーデイビッド・ルイスー
トロープ存在論ースタウト、ドナルド・ウィリアムズー
3:時間を通しての同一性
持続問題とは何かー人は同じ川に入ることはできないのかー
三次元主義(耐存)と四次元主義(延存)
物はいかに構成されているのかーひとまとまりの物とは何かー
時空ワーム説ー時間を通して同じ何かー
メレオロジー的本質主義ー厳密な同一性と日常的な同一性ー
存在論的ニヒリズムーどんな物も特定の形に配置されてるだけであるー
ネバネバ説またはモナド論ー世界は最小の部分を持たないー
メタ存在論による批判ーメレオロジー的和の存在を問うことに意義はあるのかー
付:アトムからどう性質が生じているのかー基体説と束説と塊説ー
終:世界の構造を問うことに意義はあるのか
超越論的議論は形而上学を否定しているのか
意味論と存在論をいかにして結びつけるか
科学的存在論と日常的存在論の関係を考える
1297613728 ノージック「アナーキー・国家・ユートピア」を読んでるが、言われている程には読みやすくないことには頭を抱え る。リバタリアンっていうとすぐに市場主義の側面ばかりが強調されがちだが、権利保護の側面にも注目すべきだ。私は今まで帰結主義が説得的だと思っていた が、自然権論も馬鹿にならない
権利保護を民間に任せると(公正性などの問題から)唯一の支配的保護協会だけが残ることが合理的な結果でありそれこ そが最小国家と同じだ…というノージックの議論から、ここでの権利とは(法人を含む)対人な権利(例えば犯罪や相続)のみであって、ロ-ルズの格差原理 (平等追求)が要求する対国家的な権利は含まれていない
日本で起こっている問題のかなりの部分が実は権利保護に訴えることで十分に解消できるん じゃないかという気がする。もちろん守られるべき権利(自然権)とは何かという問題は残るが、安易に何でも国家のせいにするよりよっぽどマシだ。少なくと も権利保護+市場だけでどこまでできるかを考えるべきだ
例えば単に市場に頼るだけだと労働条件を悪化させることで利益を得ようとする経営者も出て くるが、権利に訴えることで悪化に限界を設けることはできる。ただし経営者側の解雇の自由も守られるべきだし、解雇の自由は雇用の自由にもつながることに 注目すべき。権利保護は市場に最小限の制約を与えるだけ
とはいえ、権利保護だけを行なう国家が本当にどこまで小さくなるのか疑問も出る。どこまで 国家が権利保護に関与にするか(関与には金がかかるので関与しすぎると再分配と同じになる)によって結局は権利保護(弁護士費用とか)に金を払う余裕があ る金持ちが有利になるだけじゃないかという疑問も残る
つまり、権利保護だけを行なう最小国家であっても、社会の側がどのような社会であるかによっ て国家の大きさはかなり違う。何でも国家の制度(裁判など)に頼る人ばかりになったら直接的な再分配をしなくても国家は大きくなってしまう。そう考える と、リバタリアンにとって共同体問題(最終章)は馬鹿にできない
ノージックのロールズ批判はあまりパッとしないけれど、福祉国家的な再分配への所 有権による批判が基本。正当な手段で手に入れた物はその人の物という「権原理論」の考えにとって重要なのはどのように手に入れたかという「歴史原理」で あって、現にどういう状態かという「結果状態原理」ではない
「権原理論」にとって、正当な手段で手に入れたという歴史が重視されるべきであり、取 得過程を無視して現時点の分配状態によって再分配をするのは正当でない。ノージックによる批判はないが、その人が何をしてきたかの歴史によって再分配をす ることは正当かもしれないが現実に実施するのは困難
ノージックが単なる市場主義ではないのは、様々な共同体が併存していくこと(結果として駄目な 共同体はなくなり良き共同体は残る)を主張しているにあるのだが、問題はノージックのいう共同体は誰でも出入りも新設も自由であるという設定だが(本人も 気づいているが)これは現実には無茶だ
もう一つの謎は国家と共同体の関係が分かりにくいことだ。共産的共同体が上位のリバリアンな国家と両立する と考えるのはやっぱり変だし、共同体がどのくらい様々な機能を担っているかで必要な国家の大きさはかなり違ってしまう。権利保護とは訴えるものであるが、 共同体のあり方によって訴えの数はかなり上下するはず
ちなみに、九章の民主主義国家の生成に関しては、確かに面白い議論ではあるのだが前半の保護 協会の議論に対して付け加えるものが多くない(付け足しの議論)って印象も拭えない。この本の基本構成は前半がアナーキズムvsリバタリズムの対立で後半 が福祉国家vs夜警国家の対立で最後は共同体論でいいかな
1294759116 例によってツイッターのつぶやきとして書いて出す気がなくなったもの

興味からズレてたので今ま で読んでなかった「四次元主義の哲学」を読んでいるが、それなりに面白い。ただ、四次元主義を擁護する目的上か、納得できない偏った議論も見受けられ、そ の点では(必ずしも中立的ではない)論争的な著作だと言える。少なくとも前もってある程度の知識がないととても読めない
著者のサイダーは現在主義 の批判をしているけど、永久主義を擁護する上で物理学理論を持ち出すのは問題がある。そもそも根拠としている物理学理論自体が時間の流れをうまく捉えられ ていないのだから、永久主義が前提の科学理論によって永久主義を擁護するというトートロジーに陥っている気がする
「四次元主義の哲学」の面白いと ころは(直前の曖昧性の議論と共に)一致のパラドックスの議論にあり、ここで持続の段階説(時間版の対応者説)が擁護されている。有望な説として時空ワー ム説とメレオロジー的本質主義と(メレオロジー的)ニヒリズムが論じられ、段階説は時空ワーム説の修正版に当たる
時間を通しての同一性(持続)で も、メレオロジー的単体(分割不能な哲学的アトム)とメレオロジー的和(アトムの融合体)があるが、ここで議論されているのは主に和。像と粘土の塊は同時 に同じ場所に存在するか(形を潰すと像だけ消えるのか)みたいな議論に答えるには時間版の対応者説は優れている
どうもサイダーはメレオロジー的な 本質主義とニヒリズムを強引に分けようとしている。前者では和だけが存在し後者では単体だけ存在するとしてるが、それだと本質主義では単体一つでは存在で きないが単体二つの和では存在できるという無茶な話になる。本質主義は単に全体部分関係に関する説ではないのか
ちなみに私には、メレオロジー的本 質主義はサイダーが議論している以上に優れた説であると思う。メレオロジー的単体にも時間版の対応者説を当てはめるのは問題がありそうだ。分割不能なアト ムに類似しているから同一であるとするのは変であり、同じアトムのままの融合体にも同じことが言える
完全にそっくりの双子がいたとして、その子ら の同一性は耐時的なアトムに頼れないなら類似性に頼ることになるが、双子の一方のちょっとした変化によって(耐時的には)他方の子の方が類似していること になりえて、双子の同一性は混乱してしまう。時間版の対応者説の持つ柔軟性が逆に弱点となってしまう
1292599906 メモ用ブログに出した神学記事(ただし分析哲学色は弱め)が自分としては気に入ったのでリンク →http://thinkcogscijapan.blogspot.com/2010/12/blog-post_18.html(例によってあまり 信用しないように)。とはいえ、過去の経験からして私が気に入った記事は読者にはそれほど受け入れられない。自分の中で生じた新しい理解を整理できた記事 が気に入る(解説レベルの記事の方が歓迎される)のだからしょうがない
1292510733 ウォーバートン「哲学の基礎」(isbn:9784062163927)は全体的に大した本ではないけれど、芸術 の章にある歴史的正しい演奏に関しては(日本の音楽評論家でもあるまいし)未だにこんなにレベルの低いことを言っている人がいることに飽きれた。アーノン クールの本でも読め!と怒鳴りたくなるぐらいひどい。古楽演奏の目的は歴史的な正しさではない。(作曲された当時とは大きく変わった)現代の楽器や演奏で は古い音楽の魅了を引き出すことができない(場合によっては演奏不可である)。だから、作曲者がどんな楽器や演奏を想定して曲を書いたかを知る必要がある (曲の精神を汲み取ることの重要性を分かってないのはお前だ!)。アーノンクールも言うように、それさえ考慮されていれば現代楽器による演奏でも問題はな い(作品ではなく演奏を聞くことが目的であったロマン主義的演奏観と比較せよ)。本当にこの著者は芸術を舐めている。せめて歴史と芸術の関係が考察されて いればまだ許せるが、それがある訳でもない。芸術を定義しようとするのはいけないと思わないが、それとは別に素朴に芸術を無歴史な普遍的ものだとしてしま うのはいくらなんでもありえない。芸術が普遍的であるという言説自体が歴史的に生じたものなのに…
1292510164 自分は二十世紀の後半に起きた革命の影響を大きく受けており、それ前の立場は個人的に好きにさえなれない。特に認 知革命や古楽革命の影響を大きく受けたのだが、それらの影響を受けた1990年代には嫌いだった行動主義もロマン主義(大指揮者−大演奏家主義)も日本で は未だに影響力が強くてうんざりしたものだ(私のはてなブログは認知革命の意義を伝えようとした戦いの記録である。2000年代に入ってもまだそんなこと も分かってなかったのかよ!)。他にも、クワイン以後の分析哲学の影響も大きいが、これも当時は論理実証主義やウィトゲンシュタインの色がこびりついてい て飽き飽きした覚えがある。それから、マルクス主義理解は広松渉やアルチュセールの影響を受けていたので、未だに日本のマルクス主義者には疎外論者が多く て愕然とする状況である(まぁネグリとかだってマルクス主義としては素朴だったりするので、日本だけの問題とも言いきれないが)。他にも探せばあるかもし れないが、私からすると現在の日本は思想的には二十世紀後半の大変革の影響を(ただの流行として以外には)ろくに受けていない遅れたところに思えてしょう がない。
1292424153 数学における普遍と自然における普遍は一緒に論じられる傾向があるが、これは問題がありそうだ。直観的にも、数や 集合の普遍性と自然種の普遍性を混同して論じることには問題がありそうだが、理屈としても自然での普遍を語る上では論理(数学)が前提とされるがその逆は ないことを考えてもよい。そういう混同が生じた源はクワインにありそうだが、だとしても可能世界意味論の研究が進んだ今でも混同が多いのはちょっと解せな い。影響力のある論文(「何があるのかについて」)で概念論という中世にはなかった(というか唯名論と区別がつかない)立場を語っているだけでも頭がいた いが、クワインは一般的には極端な唯名論に分類されるが、自然種論文まで考慮すると大して強い唯名論ではない気もするし、クワインが自分はだいたいにおい て実在論だと言っているという情報(引用元不明)もある。
1291905734 だいたい論証的でない哲学テキストなんて嫌いだ!!公理的な書き方のテキストって見せかけほどには大して厳密でな いんだよな(数学のテキストを読む方が何千倍もマシだ、てか数学のテキストなら証明が書いてあるから十分に論証的になっている)。こう言っちゃ悪いけど、 公理的な哲学テキストって神話的な哲学テキストと同じで良くて辻褄が合ってるだけ(下手すると辻褄さえ合っていない)って気がかなりする。論証的な哲学テ キストならどんな空想的な内容でもあろうとも読み手に考えさせるきっかけを与えるけど、辻褄があってるだけでいいのなら何とでも言えるから馬鹿らしい。せ めてそこで辻褄を合わそうとしている話が何の目的や問題意識でなされているかを考慮するしかない(そしてそれが分かったところで哲学的に得られるものはそ れほど多くないが。そして、そういうの(特に神話的テキスト)を好むのは不思議大好きちゃん(または深淵ぶりっこ大好物くん)ばかりだから、真面目に付き 合ってるのがアホらしくなる)。
1291905691 ちょっと気が向いて宮元啓一「牛は実在するのだ!」isbn:4791757556を読んでるのだけれど、何だこ のインド哲学の公理系な書き方は!単に公理が並べられていて論証が全くない(もちろん実例もない)ところは、「エチカ」や「論理哲学論考」どころの比じゃ ない(これらよりは論理的な一貫性は高そうだけど、でも無味乾燥もここまで来るとすごい)。ユークリッド幾何学みたいのは嫌いじゃないけど、でもこれの読 んでて納得いかなさはなんだろう(何で時間や方角が実体に分類されているんだ??)。インド哲学解説書を読んで期待して手に取った自分が馬鹿らしくなる。 あと西洋哲学に関する記述は例によってさっぱり信用できない(アリストテレスだってヴァイシェーシカ学派と同じで言語の分析からカテゴリーを作ったんだっ ての。宮元啓一は西洋哲学への偏見強すぎ)。
1291742027 出したのは未完成の文章なんだけど、これ以上書けそうもないしどうせメモ用ブログだし…もったいないから更新し ちゃった。読者なんてろくにいないことを前提にしているから別にいいや。いちおうリンクだけ →http://thinkcogscijapan.blogspot.com/
1291131358 メモ用ブログは少しだけ更新してるけど、他人に読ませる気ゼロだよな、ほんとに(要するにここと同じ。読みやすく するつもりもないし更新を知らせる気もない)。短い文章はこっちで長い文章はあっちのつもりだけど、おそらくこれからも更新は稀になるかなぁ。あと、そこ のブログにある統計機能がここのところさっぱり使えなくて困っている(便利な機能のになぁ)
1290358265 もしかして「パースの宇宙論」の注にあるパトナムの論文"Logic without foundation"って"Mathematics without Foundations"の間違いじゃねぇのか。少なくとも検索しても出ない。だとしたらひどすぎるぞ、おい!
1290357924 「パースの宇宙論」を読んでいたら、パースの連続主義がパトナムによって超準解析や様相論理と関連があるとされて いるとあって??だったのだが、(パトナムが様相論理を創案したというどう考えても勘違いなのは即座に脇に捨てるにしても)ネットで超準解析を調べたら案 の定勘違いしていると感じた。私はおそらく(パトナムの数理的議論で最も有名な)モデル論的論証が関わっているのではないかと踏んでいたのだが、それが正 しかったようだ。てか、超準解析と連続主義が関連があるのはなんとなく分かるけど、この著者に数学の理解があるとは思えなくてそこに引いた。ケンブリッ ジ・プラトニストの話とかは面白かったけど、あとは資料として以外にはお勧めできない本だな、悪いけど。
1289398703 何か書いた文章は既に一つあるけど、全然違うテーマであるとはいえ出す気が失せた。こっちはそいつを追ってはいないのに(暗躍は嫌々ながら知っただけ)、あっちは馬鹿みたいにしつこい。あれはもう病気だな。該当の記事は消去しようかな〜
1289397672 例の人が暗躍したらしい。本当にしつこいな。
1289318113 メモ用ブログ(→http://thinkcogscijapan.blogspot.com/)に記事を出して みました。しょっぱなからこのテーマの文章を出すのは心配ですが、別に特別な意図がある訳ではない(だってはてなハイクの続きで思いついたときに書いたも のを出してるだけだもん!)。正直、続くかどうかは分からない。はてなブログのように分かりやすく書く気はありませんので、そこはご承知のほどを。
1289225893 このはてなハイクで書いてることは、あくまでアイデア・レベルの話(思いつきで書いてるから情報としても不確実) であれ、それなりに長文になることが多いので、思い切ってどこかにメモ用ブログを作って書こうか迷っている。はてなだと(例の人が裏で暗躍しているせいも あり)ウザイところがあるので、別のブログにでもしようとはしている。てか、既に加入していてすぐに開始できるブログ・サービスはいくつかあって、実はそ のひとつに前口上まで出したのだが、何かまだ決心がつかない。一般向けにも専門向けにも書く気はないのだけど、編集はしやすい方がいい(前口上を出してか らしにくいのに気づいた。その点ははてなは便利だ。でもそこは過去に書いた記事が放置状態だったのにスパムがなかったのでその点は安心できるのだが。てか その過去の記事を消去すべきかも迷ってる)。でも気に入るブログ・サービスってそんなにないし、困った。
1288883548 極端な実在論;無茶な主張で採用する人はいない。プラトンも晩年には批判的に
穏健な実在論;(科学などの経験を通して)世界の構造を問う。事態存在論の採用が多い
穏健な唯名論;論理的な一貫性に優れているが、世界の構造でも意味の発生でも中途半端感も
極端な唯名論;有限なる認識者の立場に立って意味の発生を問う。構成的唯名論や反実在論
解釈学の立場;視点(パースペクティブ)を捉える点で優れている。言語と世界の関係が謎
1288883487 現代の普遍問題への立場は(穏健な)実在論と穏健な唯名論と極端な唯名論と大きく三つに立場に分けられる。極端な 実在論はいわゆるプラトニズムと呼ばれ第三人間論による古典的な批判があってこの立場に立つ人は基本的にいない。これらの中でも、世界の構造を問う普遍問 題の上で対立しているのが穏健な実在論と穏健な唯名論であり、そもそも普遍問題を拒絶しているのが極端な唯名論であると言える。
実在論は基本的に 科学的実在論を基礎にしてせいぜい日常的世界観をスーパーヴィーニエンスによって付随させる程度だが、穏健な唯名論(可能世界唯名論やトロープ唯名論)は 日常的世界観を(より同等の立場で)取り入れつつも科学的世界観こそが世界の構造を適切に捉えると考える点では実在論と似た立場に立つ。これら穏健な立場 では、普遍問題に心身問題を付随させて語ることによって世界の構造について直接に問うことを可能にしている。
対して、極端な唯名論(構成的唯名 論)ではむしろ普遍問題を根本から拒絶しているように見える。とはいえ、実際にはクワインは自然主義の立場に立っているのであるが、私のような認知科学の 基礎に興味を持つ者からは、認識を科学的に問うにしてもその科学的認識を問う必要もあるのでは…と循環論に陥るところが不徹底に思える(ノイラートの船を 持ち出すことは答えになっていない。本気なら哲学なんて捨てちゃえばいい)。むしろ相対主義に立つグッドマンの方が議論的には徹底しているように思われる が、ディヴィドソンの概念枠批判を考えると強い相対主義には問題があることには注意が必要だ。
極端な唯名論は(クワインとグッドマンによって)構 成的唯名論として定式化されているが、この考え方は意味論を拒絶(=普遍問題を拒絶)して統語論の考えをとるのであるが、この点ではセラーズの唯名論の議 論とも共通点を持っている。また極端な唯名論と似た議論をするのが反実在論であり、クワインの指示の不可測性とパトナムのモデル論的論証とがそうである。 さらに反実在論のダメットと唯名論のセラーズには正当化(理由)の議論による共通点もある。{注:ちなみに、ディヴィドソンは言語と世界との対応を怪しむ 点(指示なき実在!)で極端な唯名論に近くも思えるが、この後に触れる意味の発生にも関連したダメットによるディヴィドソン批判も考えると、そういう点で はこの分類中にはうまく位置づけられない。この問題は現象学と解釈学との関係とも関連するが、面倒な問題なのでこれ以上は触れない}
極端な唯名論 (反実在論)は科学的世界観と日常的世界観とをほぼ同等に扱うのを基本にしているが、この考え方はフッサールの生活世界論とも似ている。フッサールの生活 世界は多義的であり、科学的世界に対する日常的世界を意味する狭義の生活世界と、科学的世界も日常的世界も共に生み出すところの広義の生活世界とがある が、この場合は広義の生活世界が当てはまる。その点では(クワインによる神話と科学の同等視を受け継いだ)グッドマンの相対主義の方が徹底した議論(科学 的世界観も日常的世界観も生活世界から生じる点で同等)ではあるが、科学的世界観と日常的世界観の違いがどこから生じるかは問われないままではある。
科 学を参照して世界の構造を問う穏健な立場に対して、極端な唯名論(反実在論)が立つ立場は…と考えると、現象学における静態的現象学と発生的現象学の対比 が参考になる。世界の構造を問うのが静態的現象学の立場と同等ならば、意味の発生を問う発生的現象学が極端な唯名論(反実在論)に当てはまるのだろうか。 極端な唯名論(反実在論)が意味の発生へとつながる議論をしている考えるのは不自然ではない。なぜなら、極端な唯名論(反実在論)は世界の構造を直接に問 うのではなく特定の世界観の構成を問題にしているのであり、意味の発生を扱う一歩手前までたどり着いているとも言える。クワインの認識論の自然化やグッド マンの投射可能性は意味の心理学的な獲得であるし、ダメットやセラーズによる正当化も認識論的な強い正当化ではなく言語哲学的な弱い正当化であり、世界観 の構成へと向けての意味の発生が前提とされているとも言える。しかし、フッサールの発生的現象学が主に時間の問題が中心であるのとは対照的に、こちらでは 生活世界における意味の発生に焦点を当てる方向へと向いている(しかしそれ以上は踏み込めていないが)。
分析哲学では世界の構造を問う存在論的な議論構成(普遍問題+心身問題)の方が主流の多数派である。これは議論のしやすさ(生産性)を考えれば当然であり、それを責めるのはお門違いだ。
↑ちなみに、分析哲学方面は関連論文を多少は読んだので構わないと思うが、フッサールに関しては概論書レベルの知識で書いているので注意。てか、現象学についての文章じゃない(アイデアを借りてるだけだ)から許されるはずだが。
1287159684 ツイッター用のつぶやきを書いておきながら何となく気になって出しそびれて、後で出さなかったつぶやきをみると間 違いや勘違いが見つかって出さなくてよかったということが案外意多い。得意領域ならまだしもそれ以外だと、やっぱり差し支えのないことでもなければつぶや きをすぐには出すのを決心できない。私はツイッターとの相性が悪い。
1286983062 誰とは言えないけれど、ツイッターを見てたら尊大な態度の人が別の尊大な態度の人と仲良くしているのを見て、あぁ そういうことなんだと感心してしまった。どちらも学者か学者っぽい人(ただし専門領域は違う)なので学問への価値観が合ったのかもしれないが、(素人を含 む)他人への相当な厳しさと比べたときのその人たち同士のやりとり(じゃれあい?)の甘さが対照的で、所詮は自分たちには甘い人たちなんだなぁと思うと同 時に、その人たちの辺りには近づかない方が懸命だろうなとも思った(自分の土俵では他人に厳しくそのじつ土俵の外(つまり他の土俵かも)では他人から突っ 込まれないことをいいことに自分に甘いなんて…)
1286900421 学者や院生が自分の専門領域についてネット上で素人同然の相手に一生懸命ダメ出ししているところを見かけたりする と大人気ないなと思う。そういうのは専門家同士でやればいいのであって、明らかに知識に差があるのが当たり前の相手に向かって偉そうに語ってるのを見てる とかわいそうな人だと感じる
1286900371 出しそびれた結果としてツイッターのつぶやきを書き溜めてしまう。それを改めてツイッターに公表するにはなんだか馬鹿みたいだ。速攻で打ち込んだものを出すのは躊躇してしまうことが多いけど、ブログに出す程の文章を書く気にもなれない。

グッドマンとセラーズの唯名論の共通点は、カルナップの規約主義を徹底させたことによる相対主義であり、つまりは科学的世界と日常的世界を同等に扱うことにある。形而上学的実在論が科学的実在論を基礎にしてスーパーヴィーニエンスを施す階層的な理論構造とは異なる
グッ ドマンとセラーズの言う唯名論は、カルナップ的な統語論を徹底することで言語と世界の関係としての意味論を拒絶する点で、客観的な世界構造を知る事はでき ないとする反実在論と轍を一緒にする。でも彼らの唯名論の論文は分析哲学で意味論が隆盛する前の書かれてたので、本格的な対決ではなさそうだ
中世末期の唯名論から近代初頭の認識論への流れが最近の私には自然なものに思えてきたのだが、20世紀に起こったのは認識論から唯名論への流れであり、明らかに流れが逆であるのが興味深い。確実な知識獲得の探求としての認識論への態度の変化として考えると面白い
グッ ドマン&クワインの構成的唯名論の論文を読んでいたら自分たちは有限の立場に立つとあって、それって数学的な直観主義の立場とそっくりなので、やっぱり反 実在論と極端な唯名論(述語唯名論)は関連があるんじゃないかという仮説は正しい気がする。正当化も弱く受けとればセラーズの考え方と似る
構成的 唯名論の論文では集合が普遍として否定されていたが、これは穏健な唯名論(可能世界唯名論やトロープ唯名論)とは異なる考え方だ、極端な唯名論は集合論の 拒否=意味論の拒否を主張しているのであり、その点では世界の構造を問う普遍問題を根本から拒絶しているようにさえ見える
1285434910 例によってツイッター用に書いてやっぱり出す気がなくなったつぶやき集

反実在論は、観念論と実 在論との認識論的な対立の中で位置づけるのが一般的だが、唯名論と実在論との存在論的な対立においてはどのような位置づけを持つのか。パトナムは反実在論 を形而上学的実在論への批判であるモデル論的論証とむすびつけて論じているので無関係ではないはずだ
普遍問題に関する説を(形而上学的)実在論・唯名論・極端な唯名論と分けるとすると、パトナムが反実在論を論じる上でクワインやグッドマンを持ち出すことを考えると、反実在論は極端な唯名論と相性がいいように思われる。
認識論では「何を知ることができるのか」を問うのに対して、存在論では「何があるのか」を問う。存在論的な普遍問題では、普遍を知ることができるかどうかは独立の問題であり、何が普遍として相応しいかは科学などによる経験的探求によって分かることでしかない
昔の普遍論争では普遍として犬や人間のような生物種が例として出されていたことが多かったようだけれど、進化生物学の発展した現代では生物種を素朴に普遍として認める訳にはいかなくなった。今や種問題は普遍問題とは独立にそれ自体が難しい哲学的問題になってしまった
所詮は素人の私は議論を整理してるだけでも楽しい。物存在論(個物)・事存在論(事態)・質存在論(トロープ)と普遍問題の主な立場の分類に対照的な命名を勝手にしてるだけでも悪くない。クラス唯名論・類似性唯名論・述語唯名論の分類とは別だと考えると分りやすい気がする
追加の補足:クラス唯名論と類似性唯名論は同時に採用することが多いので、これらを別々に分類する必要があるかは考えてみると怪しい。で述語唯名論っては極端な唯名論のことだから、唯名論のこのタイプの分類は思った以上に意義が少ないかもしれない
現代哲学において唯名論に対する実在論(形而上学的実在論)を採る人は穏健で科学的な実在論を採るのが一般的であり、極端な実在論であるプラトニズムを採る人はあまりいない。
社会構築主義とグッドマン流の相対主義との大きな違いは、前者が経験的探求を軽視する(何でも社会的に構築)なのに対して、極端な唯名論でもあるグッドマン流の相対主義は経験的探求を取り入れながらも枠組みの相対性を主張する。
1284646078 マルクス主義に関しては以前にそれなりに勉強したことがあるが、結論としてはマルクス主義者の言うことに付き合っ ても得るところが少ないので付き合っても切りがないということだ。マルクス主義者は観念論と唯物論を対立させて観念論を罵倒するのだが、彼らの言う観念論 と唯物論を分ける基準はよく分からない。彼らが観念論だと罵倒しているものが観念論だとしか分からず、これではトートロジーでしかない。だいたい真面目に 検討すると、彼らが史的唯物論だと言ってるものが(大して根拠のない)妄想的な観念にしか思えない。しかも、マルクス主義者は自分たちを科学的だと称した りするが、どこが科学的なのかさっぱり分からない(せめて実際の科学を参照してくれとも思うがその点も駄目)。比較的まともなのはマルクスが「資本論」で 行なった資本主義分析があるが、なぜかこれをうまく説明できる人がマルクス主義者で見かけることが少ない。あと残るのは疎外論があるが、これの説明がうま い人はよく見かけるが、これがマルスク主義の真髄だと言われたらそりゃないよと思ってしまう(その源が観念論と罵倒されるヘーゲル哲学な上に、これはマル スク主義への入り口に過ぎないとしか感じない)。ちなみに国家社会主義が駄目になったのは言うまでもない。一般的な印象として、(標準的な)マルクス主義 者の議論は不毛に感じることがあまりに多い。私が意義を感じるような議論はむしろ異端気味だったりする(例えばグラシムやアルチュセール)。とはいえ、マ ルクス主義が二十世紀後半に果たした役割は重要であり、それが崩壊した影響が現在の社会科学の漂流(私にはそう見える)の原因ではとさえ思ってしまう。
1284389938 一般的なリバタリアンは市場主義の要素が強く、確かに情報の分散は想定されているがそれは市場でのやりとりの限定 されており、市場一元論の欠点は免れない。一般的なリバタリアンでが政治は否定的に扱われるか、その機能を市場に還元してしまうかでしかない。しかしすべ てを市場に任せること自体に危険な要素があり、それを打ち消す別の手段が必要に想われる。対してある種のアナキズムは政治をも分散させて機能させようとし ている。
1284389914 あずまんは「本」連載でエリート統治の中央集権を批判しているが、その代わりに提案されるのはグーグルをモデルと するバラバラにある様々な情報を統計的に集めて政治を進めることだ。しかしこれは(専門性を否定してすべてを素人レベルに落とし込もうとする愚を脇におく にしても)、一極した中央(エリート!)への集中を批判したことにはなりえても、情報を特定の場所に集める点で集権的な部分は変わっていない。あずまんは 情報の分散の考え方をどうもよく理解していないように思える。
情報が分散して処理される典型的な例としては市場や進化(や神経系)が挙げられる。 市場では商品の値段は個々の消費者が比較判断して購入商品を決めそれに応じて個々の商売人が値段を調整したりする。市場では様々な値段が集められて処理さ れる地点など存在せず、局所的に情報が処理されるだけである。進化も同じように、淘汰なり変異なりが局所的に生じるのであって、情報が集められる特権的な 地点などどこにも存在しない。もちろんバラバラの情報が集められて統計的に処理される訳でもない(神経系におけるベイジアン処理にしても処理される情報は 局所的なものに過ぎない。神経系の話はややこしくなるので、ここではこれ以上は取り上げない)。
1283616708 科学言語に対して日常言語を原初的な基盤として特権化して扱うのは、一見正しそうに見えて正しくないことが存在論 的相対性の議論から分かる。フッサールの生活世界の話も、そういう議論のをしているかのように見える部分もあるが、実際にはもっと多義的であり、日常言語 と科学言語を区別することなくその基盤としての生活世界を指摘しているとも言える(ウィトゲンシュタインの生活形式も参照)。現実的に科学言語と日常言語 を厳密に分けることなどできない(互いに入り組んでいる)ことを置いておいても、どの言語が(翻訳によって指示を確定するために)特権的かと考えるのがそ もそも誤りであり、そしてもちろん日常言語を分析する研究者が特権的な立場に立っているなんてこともありえない(分析に用いられる言語が科学的か日常的か は関係ない)。
1283616672 統語論的分析(文法の分析)と語用論的分析とは互いにそれなりに独立であって、一方の分析の正しさが他方の分析の 正しさに直接に影響を与える訳ではない。もちろんこれらの分析領域は意味論を介して関連してはいるのだが、そのことが統語論的分析と語用論的分析の関係に 与える影響は複雑ではあるが互いに相手の分析を否定できるような影響とは言えない。そもそも統語論的分析は実際に使われている言語のあり方に介入すること はありえない。たとえ統語論的分析で規範という言葉が使われていてもそれは倫理学で使われている規範とは意味合いがまったく異なる。極端なことをいえば、 語用論的分析はその分析素材で喋られていることが文法的かとは関係なく行なうことさえ原理的には可能だ。統語論的分析と語用論的分析を対立させるのは不毛 どころか間違っている(根拠のない敵対視)のでさっさとやめることをお勧めする。
1283016412 ツイッターで躊躇していたフォロー外しやブロックも思いきってやってしまうと本当にすっきりする(今は未公開リス トを使っているのでフォロー外しはめったにする必要ないが)。こうやってネットでは棲み分けが生じてしまうんだろうなぁと思うと複雑な気分にもなる。で も、所詮は余暇でやっているにすぎないネットで嫌な言動に付き合って精神を磨り減らすのも馬鹿らしい。
1282499094 ツィッターのどこがウザいかというと(ブロックまではしにくいウザい奴がいることを脇においても)リアルタイムで つぶやくことを促されているようで(一日と経たない返信でも遅レスだって〜?)そこが一番ウザい。実際に古いつぶやきは見れなくなったりもしてるし、非同 期であることをツィッターのいいところだと期待してただけにガッカリ。少なくとも自分はあまりやる気がしなくなった。かといってブログもやる気しないなぁ (実際に今まで見てた他のブログの更新も稀になってるし)。まぁ、せいぜいフォロワーに悪いから気が向いたときに(からまれそうにない)独り言をつぶやく のが限界だな
1282229709 「インド哲学七つの難問」(isbn:4062582554)はかなり前から折にふれて読んでいたが、つくづく面 白い本だと感じる。しかし、この本でインド哲学と対照されて紹介されている西洋哲学の説明はかなり怪しい。例えば西洋哲学がすべて観念論であるかのように 書かれているが、西洋で観念論が主流になったのはデカルト以降の近代哲学以降に過ぎない。それ以外にもいろいろ勘違いはあるが、そもそもこれは著者の専門 がインド哲学なのでその点を期待するのはお門違いだろう。そして、この本で描かれているインド哲学は西洋における中世や現代の形而上学に似ているのだが、 普通の人はそんな知識を持っていないし、私だって最近になってやっとそうであることに気づいた。この本での普遍問題における実在論と唯名論の扱いが勘違い されやすいものであること(普遍問題を出すべき第五問である)はネッ上トの書評でも指摘されている。それ以外にも第六問の知識論はその論述内容からする と、現代形而上学における命題論の周辺の議論(例えば真理メーカー)に近いし、絶対無の議論は確かに西洋にはないが関連した議論が全くない訳でもない(カ テゴリー論)。この本にある議論は宗教的な議論と形而上学的な議論に分かれるが、形而上学的な議論に関しては(一般に知られてないだけで)実は西洋とイン ドで似たような議論をしていたのだ(この点は著者がインド哲学は西洋哲学的な偏見で理解されないと言っているのだから皮肉である)。この本に描かれて哲学 的な議論を自分で分かりやすく再構成するのは楽しい作業だが、やはりそれ以前にそもそもにおいてなぜ形而上学的な議論が必要なのかという問題意識のところ が書かれていないので、多くの人が議論を無味乾燥に感じてしまう可能性は高い。インド哲学を単なる思想史から解放するという新しい試みの本としては素晴ら しいが、こうした点では日本の他の哲学本と同じ欠点を持っている。日本の哲学の本に必要なのは(単なる輸入品でない)問題意識を持って自分の言葉で論じる ことだが、その一端を示している点に関しては喜んでいいように思う。
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こっちはつぶやきとして出せそうな内容に書き直したものだが、自分のツィッターへのウザイ感は増すばかりなので出す気にいまいちなれない
松 浦明宏「プラトン形而上学の探求」を読んだけど、前半のプラトン研究概説は参考になって便利だが、後半のテキストに沿った議論は分かりにくくてお勧めでき ない。相当な批判的読解をしないと理解できなくて、私の印象では限定の「ある」と無限定の「ある」が混同されているのが不明瞭の原因だと思う
限定 の「ある」とは特定の物(個別者)があることやあるイデア(普遍者)があることを含むが、無限定の「ある」は本文ではうまく説明されてないが、強引に様相 実在論で説明すればいかなる様相も加えられていない可能世界全体が無限定であり、性質や関係による様相化によって限定が加えられる
この本の隠れたテーマは後期プラトンを新プラトン主義的に読解することは可能か?だが、本人の意図に反して純粋な読解かどうかは怪しい。思考と感覚との関係を探る「テアイテトス」と思考と対話の関係を探る「ソフィステス」を混ぜて議論しているのも混乱している原因かも
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松浦明宏「プラトン形而上学の探求」(isbn:486163024x)を読んで書いたつぶやきだけど、こういうアイデア段階の話をつぶやいて誤解されるのも嫌なのでこっちに載せる。

20 世紀後半には現象学と分析哲学とで形而上学復興が着々と進められていたが、20世紀前半の形而上学批判とは対照的に思える。しかし実際は、形而上学批判を 通して形而上学復興への道が築かれたのであり、その点は皮肉である。未だに素朴に形而上学批判とか言ってる奴はそうした皮肉の分からない不勉強に過ぎない
形而上学復興といっても現象学と分析哲学とで起こった動きは異なる。現象学の新プラトン主義的な形而上学復興に対して、分析哲学はアリストテレス的な形而上学復興であり、同じく形而上学の呼び名でも中身はかなり違う。その点では20世紀の前半と後半とにはつながりがある。
現 象学と分析哲学の形而上学復興の対照性は、ハイデッガーとウィトゲンシュタインの哲学の対照性でもある。現象学的な形而上学では未規定性について否定的に (又は両義的に)語られるのに対して、分析哲学の形而上学では未規定性はあくまで(語られるよりも)示されるに過ぎない
未規定性の話は始めるとや やこしい事になるのでここではこれ以上は触れないが、分析哲学の形而上学における未規定性とは、例えばおそらくトロープが挙げられるが、(様相実在論にお ける)様相による制限を加えられる以前の可能世界全体にもその匂いがする。他にも事態も候補にしてよいと思う
もしこの考え方が正しかったとすれ ば、現象学の新プラトン主義的な形而上学と分析哲学はアリストテレス的な形而上学とにはつながりがあることになるのだが、無茶な考えだとは思わないが、こ れが正しいかどうかには頭を抱えてしまう。少なくとも他に同じようなことを言っている人は知らない
1281196580 ルネ・ゲノンをネットで褒めている人がいたので「世界の終末」(isbn:4892031127)を読んだけど、 これがひどい。物質主義批判などの今となっては古臭いだけの近代文明批判で、読む価値はない。別に秘教の話だったら読む価値のある本は今となっては他にい くらでもあるし、エリート主義もプラトンの国家の劣化版でしかなくて、だったらレオ・シュトラウスの本物エリート主義でも読む方がいい。哲学の知識も(本 人が思っている以上に)貧しくて当てにならないし、褒めてるカトリックもどこがいいのかろくに説明してくれてない(自分だったらスコラ哲学と新プラトン主 義を関連づける)。せめて専門に近いヒンドゥー教やスーフィズムについて読めればよかったのだが、それはたいした記述なし(しかもヒンドゥー教絶賛気味な 点は??)。ただ、解説で説明されていた比較宗教的な著作はちょっと面白そうではあった。とはいえ、この本を読む限りでは。比較研究で抽出された退歩史観 を本気でとってるかのようにも思えて首をひねる。(近代の進歩史観とは対照的な)退歩史観とは有史以前の伝説の黄金時代から人間は退化しているって神話 で、私には諸子百家辺りでお馴染みのお話ではあるが、正しいかどうかは学術的には分かりようがない。あ~、でも比較宗教研究だって今となってはデュメジル のような優れた研究もあるし、ゲノンは先駆的かもしれないけど学術的にはたいしたことない印象も拭えない(せめてニーチェのように文学的才能があればよ かったのに)。神智学や心霊主義への批判もしてたらしいけど、どうもそれらと比べてもゲノンは十分に怪しい(少なくともユングやシュタイナ-を悪く言える レベルにはないし、彼らより深いかどうかも怪しい)。洋書で読んだFrithjof Schuonもまあまあでしかなかったし、伝統主義だの何だのに期待してた自分が勘違いだった気がしてきた。秘教研究としての期待は外れたので、やっぱり 秘教関連の話は自分で調べてまとめるしかないらしい(こういう期待外れはもう慣れてたけど、でもがっくり)。
1280247892 Frithjof Schuon "Transcendent Unity of Religions "(isbn:0835605876)を少し読んだけど、どうもアマゾンのレビューはちょっと勘違いしているようだ。引用すると
「すべての宗教には「外面」と「内面」があり、外面においては違いはあれど、内面においては根底的一致がある、ということだ。真理は一つであり、諸宗教はその多様なる表れ(顕現あるいは啓示Manifestation or Revelation)である。」
レ ビューでの「外面」と「内面」は顕教(exoterism)と秘教(esoterism)の間違いであり、実際に秘教の代表としてエックハルトやスーフィ ズムやカバラが挙げられている(レビュアーにこの辺りの知識がないらしい)。もちろん啓示は一神教の特徴であり、諸宗教のその多様なる表れとは関係がない (Manifestationもなんか違う)。レビューでのFormの扱いもどことなく変(本文の記述と合わない)。どうもこの本はキリスト教の知識があ ることを前提にしている(つまり欧米の教養ある読者を対象にしている)ので(宗教に無知な)日本の並の人にはお勧めできない。秘教は顕教より深いって話 は、既に顕教を経ていることが前提であって、顕教をすっ飛ばして秘教(たいていオカルト)に飛びついてしまう日本の人が多いのは奇妙だ(事実ネットで見て てもそれなりに理解できてると思えることさえまずない)。
1278833516 最近はアンリ・コルバン(イスラム神秘主義)とかシュオン(永遠哲学)とかに関連した学者について調べている。そ れにしても、こういう密教(Esotericism)的な方面(例えばグノーシス思想)について20世紀には充実していたことがよく分かる。そして、こう した神秘思想は反近代(または超近代)を掲げることがあるが、実際にはこんなにいろいろな形(例えば自己啓発におけるニューソート)で見られることを考え ると、これらは近代エピステーメーを補完しているのではないかという疑いが強くなってくる。実際に現代神智学の登場は近代エピステーメーの初期と一致して いるし(薔薇十字やフリーメーソンはまだ本物の秘密結社だ)、その後の展開も近代エピステーメーの裏面としてみるとすっきりするところはある。近代エピス テーメの特徴が(広い意味での)超越論的思想にある(認知科学と進化生物学はその到達点)のに対して、その欠落部分を埋めるかのように現代神智学やグノー シス思想やニューエイジなどが発展していった。エリアーデやオットーの宗教研究といいハイデガーから連なる現代思想といい(おそらくユングも)これらはみ な同じエピステーメの元にまとめることが可能なようにさえ思える。外側から接近する科学思想に対して中心から接近する宗教思想という形で補完関係にあると 考えると分かりやすくなる。19世紀には外側からの接近と内側からの接近があいまいだったのだが、20世紀から入ってだんだんとはっきりと分離してくるよ うになったのではないかという気がする。それにしても、現代密教(Esotericism)は近代を乗り越えると称することが多いが、実際には個々で宗教 的真理にたどり着けという個人主義との相性がいいように思える。その点ではたとえ過去の様々な思想を参照していても、少なくとも昔のような密教とは違って いる。
1278833472 文献メモ
心的イメージとは何か isbn:4762826995
知能の原理 ―身体性に基づく構成論的アプローチ― isbn:4320122461
メタ認知 基礎と応用isbn:4762827142
心のなかの言葉―心内辞書への招待 isbn:4563052027
1277573014 「ロバのカバラ」(isbn:4887134398)を読んだ。この本のいいところは(翻訳されそうにもない) ジョルダーノ・ブルーノの著作からの引用が(長文で)かなりされていることだ。引用部分を読んでると、ブルーノって哲学って言うよりも文学なんだなぁと感 じる。それにしても、引用されているブルーノの文章にはかなりエグイのが混じっている。いくら寓話の一部として書かれているとはいえ、ロバの○○○がライ オンの×××に入って痛い(p.59)とかあまりの下品さに真っ青になった(これは「カンデライオ」だから翻訳は既にあるのかな)。これほどの猥雑さはル ネサンスの力なのかぁ~!。でもブルーノに関するイェーツの主著でさえ最近になってやっと訳されたのだから、ブルーノ本体の翻訳はなかなか進みそうにない よな。
ホラティウスの下ネタ詩もそうだけど、西洋のこうした猥雑な側面は日本ではなかなか知られないんだろうなぁ~とは思う。あと、欧米の詩(韻 文)は原文で読まないと味わいが分からない(翻訳は出がらし)なので、その点では日本人には西洋文化の本質が理解できてない(できない)とも感じる(少な くとも語学力の貧弱な私でさえそう感じてしまう)。もちろんほとんどの日本人に西洋の宗教感覚は全くに近いぐらい分からないので、もう西洋文化を理解する のは諦めたらどうかとさえ思ってしまう。いい加減に、日本での単なる輸入品にすぎないデカルト批判とかそういう諸々の批判は馬鹿らしくてうんざり…少しは 自分で考えればぁ~?
1277132978 同じくツイッター向けに書いたけど出しそびれて出す気もなくなったつぶやき
プランティンガの現実主義や非 フレーゲ論理のような事態(states of affairs)や状況を用いた議論って理論構成がきれいだから個人的には好きなんだけど、マイナーだから話しにくい。事態間の大小関係とか、事態が一つ しかない可能世界とか、面白いとも思うんだけど(自分だけ?)
事態間の大小関係たって大したもんじゃなくて事態「プラトンは賢い」は事態「禿げたプラトンは賢い」に含まれているみたいな議論を論理記号を使ってしたりするだけだ。各事態が成立しているかしていないかのどちらかであり、それらの事態を集めたものが可能世界である
事 態を用いた議論のどこかいいかというと、集合モデルを使う必要がないところがすごい。しかも個体が基礎でなく事態が基礎なのも魅力的だ。プランティンガの 場合は普遍実在論を本気でとってるからこそ可能世界論が可能になっているって所が泣かせる。こういうマニアック話もたまにはいいかな
1276706061 ツイッターのために書いたのだが、出すのやめたつぶやき→isbn:4326153148
プランティンガ 「神と自由と悪と」を読んだ。話題は宗教哲学だけど、内容は例によってゴリゴリの分析哲学なので好きな人ならどうぞとしか言えない(論理記号がないだけま し)。カルヴァン派である著者が無神論に反論しているのだが、興味がない人にはよくやるわ!としか思えない内容だな
「神と自由と悪と」は議論がとてもまわりくどい。無神論に反論するのに有神論を直接擁護してるわけじゃない。理由は簡単で、そうしないと論理的に健全な議論ができないからだ。擁護しているのは有神論の合理的受容可能性という(信者からすれば)ささやかな結論に過ぎない
論 証してるのは「なぜ悪はあるのか」に対して「現実の悪はより大きな善のためにありうる」とか、現実世界が最善であることも可能である(現実が最善であるこ とかは分からん)とか、現実世界に偉大な存在者がいる可能性がある(現実世界に神がいるかは分からん)とか、ともかくまわりくどい
これらの論証をする上でプランティンガは事態を用いた独自の可能世界論を用いているが、これに関しては概論書を読んでて既に知識があったのでそこはあまり困らなかった。
1276356451 それから、神秘体験をした人物としては合気道の創始者である植芝盛平がいて、二代目が書いたその伝記「合気道開祖 植芝盛平伝」(isbn:4882931680)はとても面白い。全般的に破天荒な人生だが武術以外の点でも、出身が熊野の近くの霊的な雰囲気のある土地 だったり、宗教家の出口王仁三郎との交流もあったり、銃弾が来る方向に光が見えて避ける事ができただの、神秘体験以前にもそれっぽい感じが既にあったのだ が、神秘体験以後に合気道の創立へとまっしぐらに向かっていったという。自分は神秘体験の記述にたどり着いたときには感動してしまった。こういうのに比べ たら、日本のネットでよく見かけるスピリチュアル馬鹿なんてどうでもいいと思うし、そもそもそいつらは何も分かってないよなぁとさえ思う。
1276279746 ブレンド「パースの生涯」(isbn:4403120172)を読んだ。これまでこの本を読まなかったのはパース の生涯については知ることができても思想について知ることができないだろうと思っていたからで、実際に思想については大したことは書いていない。しかし収 穫だったのはパースに神秘体験があったという事実が分かったことだ。しかも私が大きな影響を受けた連続主義は神秘体験以後の成立だというし、いわゆる神秘 思想(特にエマソンやスウェーデンボルグ)も影響してるらしいと分かった。パースの形而上学は思想体系的には(ホワイトヘッドの自然哲学と同じで)神秘思 想的だとは思っていたが、本当に神秘体験が関わっているとは思わなかった。なんだか私の好みの思想の傾向が(意識して選んではないのに)分かるってもん だ。
1276094654 「美しさの中を歩め」のブログ主は(記事から予想されたように)やっぱり学者だったらしい。でもあれは学者の仕事 じゃなくて好き勝手なお勉強にしか見えない。そういえば宮台真司が日本の宗教学をレベルが低いと批判してたが、中沢新一を単なる不思議大好きだって言って た人もいたけど、そもそも日本の宗教学がそのレベルなんだと思う。ちなみに、ブログ「美しさの中を歩め」は情報的な価値は高いけどそれ以外への評価は低 い。
1276007668 私は昔ユングにはまっていて以降は(精神分析そのものが痛々しくなったせいか)ご無沙汰だったが、イスラム哲学を 調べていて「ミトラ神学」を…そこからさらに東アジア思想を調べていたら「気の妙術」が…と面白い本を近所の(貧弱な)図書館で見つけ出してから神秘思想 に興味を持ち始めている。というか、シェリングみたいな自然哲学方面も別の方向から接近していて関連があったり、スコラ哲学が新プラトン主義と関わってい てこれも関連があったりと、実はあっちこっちでつながっていたりする。私の場合は別々に興味を持って調べていたら実はつながっていたことがこれまでにも あった(例えばトピカと日常言語学派)。
1275937875 そういえばdaily report from mt.oliveのブログ主はアドレスがunspiritualized(スピリチュアルになってねぇ)となっているが、ある記事でさりげなく神秘体験を したことがあると告白しているというのは皮肉である。チャネリングとか死後の世界とかは単なる興味本位かせっぱつまっててやっちゃった!みたいな人が行っ ちゃう方向だと思う(人生論や自己啓発は基本的には論外だが「原因と結果の法則」は馬鹿にできない)。むしろ私の神秘思想への興味の方向はこのブログ主の 人に近い。
1275926140 前々の記事のdaily report from mt.oliveのリンク先は井筒俊彦に関する記事ってのはこっちの間違い→http://angel.ap.teacup.com/unspiritualized/378.html。
1275835797 輪廻転生はカルマ(業)と組み合わせることによって意義を持っている。私はカルマにはそれだけでも意義があると 思っているが、ただそれだけだと生まれつきの特質がカルマであるされてしまい、受け取る側が救われがたく感じる可能性が高い。だから、カルマを前世と結び つけること(業は前世のせい)でその救われがたさを緩和させることができる。また、前世に関する物語によって豊かなイメージを喚起させることができること によって、その人がカルマと取り組みやすくする効果もある、だから輪廻転生が文字通りに正しいかどうかは実はあまり重要でない(だいたい輪廻転生を信じる 文化は時間的・空間的にさかのぼってもそれほど一般的でない)。問題は輪廻転生は間違っていると思われてしまうと効果が薄れてしまうことで、この辺りはパ ラドックスである。
1275758789 やっぱり怪しい話をツイッターには書けない(もちろんブログにはもっと書けない)のでこっちに書く。ネット上にス ピリチュアル系(神秘思想関連)はビリーバー(狂信者)が多いが、そうではないレベルの高いサイトもある。そういうサイトを紹介することにする。ただそれ でも絶賛まではいかないところがあるのは領域が領域なせいかもしれない。
スピリチュアルラボ :: 今を精一杯に生きること :: http://teruterulog.jugem.jp/
初 心者にお勧めしやすいサイト。ブログの最初にお勧めの記事が並んだ記事があるのでそこからいろいろ眺めるとよい。いわゆるスピリチュアルに興味を持ちなが らもビリーバー(狂信者)を批判してある程度の懐疑主義的な態度をとっているのが特色。問題はあまり体験に基づいていないせいかつまらない思想(例えば凡 庸なエコロジー思想あと人生論にも弱い)を評価してしまう傾向があるのが難点(あと記事間の矛盾にも注意)。しかしダスカロスへの高い評価やチャネリング 批判など見るべきところはたくさんあるサイトである。
美しさの中を歩め http://reisei.way-nifty.com/spiritualphilosophy/
そ の方面では有名なブログ。ブログ主はかなりの勉強家だが職業的な学者ではないようだ。ブログは分量が多くて大変なのでこちらのサイト (→http://spiritualphilosophy.jimdo.com/)にある記事一覧でお勧め記事を見るのがとりあえずよい。ただし学者的 な側面が見たいならブログを見るべし。ただしお勉強的な要素が強い人でしかも好き嫌いで思想を判断している様子(好きならばそれだけで受け入れる)が伺え るのでそこは気をつけるべし。反科学的態度やチャネリング好きなところは特に注意。
憂愁書架 http://saiki.cocolog-nifty.com/shoka/2008/04/post_a682.html
基 本的には書評ブログだが(関連記事は少なめとはいえ)さりげなく神秘思想に強い特徴がある。リンク先はアンリ・コルバン『イスラーム哲学史』の書評で、あ とはブルーノの生涯本の書評もお勧め。この人は理解のレベルは高いと思うのが、ただ事実的な記述には強いのだが思想的な深みに達した突っ込んだ記述を期待 して探すと見当たらないのでちょっとがっくりなところもある。
daily report from mt.olive http://angel.ap.teacup.com/unspiritualized/
と いうわけで、思想的により深い一番のお勧めサイトがここ。リンク先は井筒俊彦に関する記事でここから同ブログ内の記事につながっているのでそこから読むと よい。しかし、なんといってもブログ主が否定神学を本来の深い意味で理解している日本では稀有な人であることに私は感動した。レヴィナス論やネグリ論も興 味深いが、ベンヤミンをドゥルーズと結びつけるところはさすがに理解できない。このブログは記事をカテゴリーで分けていないので読みたい記事を見つけにく いのが欠点、私は左側にあるブログ内検索をつかった。
あと他には錬金術のブログや中世哲学のブログ(どちらも外国語や古典語に強い人が運営してる上に学術色が強い)も神秘思想と関連があるかもしれないがちょっと方向がずれるのでここで紹介はしない。
ス ピリチュアル系(神秘思想関連)で注意すべしは、たとえ狂信的でないレベルの高い人同士でも、思想的な話になると(ある程度の共通点はあれど)考え方がバ ラバラになる傾向があるので気をつけるべし。扱っている領域が領域なせいで客観的な評価が困難なのが原因だと思われる。例えば私自身は「ミトラ神学」や 「気の妙術」の影響で東アジアの思想も含めて考えているが、そういう人はネットではあまり見かけない(古武術好きとスピリチュアル好きは普通は重ならな い)。あと、輪廻転生や死後の世界は(難点があまりに多いので)あまり問題にしなくてよいとも個人的には思っている。でもこれらはあくまで私個人の意見に 過ぎない。私個人にできるのは思想史的にさかのぼって普遍的に考える努力をするぐらいだ。
1274711906 私のつぶやきを記録したブログをはじめました→http://twilog.org/deepbluedragon
1271352361 気が向いたのでしばらくの間twitterでなんか書きます。(フォローやリスト入りするまでもなく)ブックマー クしてたまに見れば済む程度の内容のつもりなので、それで構いません(というか、その方が便利かも)。相応しいネタが尽きたとかやっぱり長い文章も書きた いとかとなったらまたここで書きます。とりあえずお知らせだけしときます→http://twitter.com/deepbluedragon
1270656169 法律に関して法的システムという言い方がなされるけれど、この言い方では法律に関する異なる側面が見えなくなる。 法律といっても、法的判断の側面と法的内容の側面は全く異なる側面である。前者は司法の役割であり、後者は立法(大体は政治と一致)の役割である。実際 に、司法は法を解釈することまではできても法そのものをいじる事はできない。たとえ常識的に問題がある法律であっても、司法の側でできることには限界があ る。必要な法律は政治的な過程によって立法するしかないが、逆に言えば法律が施行されてしまえばその施行のされ方に政治は介入することはできない(ただし 法的判断の手前で止めることは可能かもしれない)。一方で必要とされる法律案があったら政治的に訴える(例えばロビー活動)しかないが、他方で問題のある 行為があっても司法に訴えなければ法的判断の対象にならず罰せられることもない。ちなみに、司法システムにできるのは不法行為を罰することまでであって、 不法行為を直接に失くす事ができるわけではない。もちろん無期懲役や死刑によってその当人が犯罪を犯すことができなくなることはあるが、軽い罰ならいくら 受けても直らない人もあるだろうし、ある不法行為が罰せられるという情報が(世間に対して)あったとしても、その情報によってどんな行動をとるか(不法行 為をやめるか隠すか別の問題ある手段に出るか)までは予測できることではない。
1270560023 私はある時期から法律ってなんだろうと疑問を持っていたのだが、法律の本を読んでも具体的な条文の話は書かれてい ても、私の疑問に答えてくれる本はなかった。法学の本というのも概論的な整理(実定法と慣習法とか)や法解釈の話が付け加わる程度で、やっぱり解決にはな らない。若いころは法律は守らなければならないもので、守らないと警察に捕まる程度に考えてきた。でも、たとえ刑事法に限定してもこれは当てはまらない、 例えばある物が盗まれたとしてもそれを正式に届けなければ盗みという不法行為は認定されないので、不法行為としてはないも同然になる。日本には不法な活動 をしてそうな企業(特に労働関連)はいっぱいありそうだが、これだって摘発されない限りは不法行為として認められない(厳しい監査を入れるのにだって限界 がある)。民事法にまで話を広げても、多くの事件が法律に訴えるまでもなく示談で済まされたりしてしまうので、単に法律を適用すればいいという話にはやっ ぱりならない。重要なことは法律は訴えなければ意味がないことだ。法に訴えることによって法的判断が下されて、初めて法は意味を持つ。法律にとって重要な ことは法的判断がなされることであり、素人には少なくともそれさえ分かればとりあえずは十分だということだ。科学にとって外側の素人が知ることができるの が(事実や理論を含む)科学的真実であるのと同じように、法律にとって外側の素人が知ることができるのは法的判断であって、そこへ至る過程は内側の人たち が主に関わる事態である。警察に捕まることも最終的には法的判断につながるが、世間の人々は(様々な情報から)何が不法かを察知して振舞うことにもなる (そこには不法行為を見つからないようにする行為も含まれる)。近代社会のシステムはブラックボックスと(外との)インターフェイスによって成り立ってお り、ブラックボックス化によってシステム内の複雑な過程を素人が知る必要がなく、インターフェイスを介して外側の素人と必要最小限な交流(科学的真実を 知ったり法的判断が下されたり)が行なわれることになる。[注:このシステムの考え方はオートポイエーシスと類似するが、私は入出力を否定しない。だいた い入出力を否定する話で意義のあるまともな話は見たことがない。そもそもにおいて生物学や認知科学においてだってオートポイエーシスなんてほとんど使われ ていない。入出力はインターフェイスによって制限される(媒介される)とすれば済むのであって、オートポイエーシスを用いたもっともらしいだけで中身のな い話は全くもっていらない]
1270449319 健全な話だけtwitterで書いて妄想的な話はこっちに書くって感じの分担になっているような。まぁ、出せる文章の長さが全然違うから単純比較できないが、たとえ短く書けてもtwitterに怪しい話は出さないような気がする、たぶん。
1270391086 神秘思想からの派生にはいくつかの特徴がある
1 世間的な枠組みを離脱する
2 世界の一体性を理解する
3 自己と世界との照応や一致
第 一の特徴が強調されるのが禅(元はヨガの一種)だが、それ以外の点では弱い。第二や第三の特徴が強いのはいわゆるスピリチュアル系(密教も含む)だが、こ の場合はこれらの特徴を感じるために神秘体験が活用されるのだが、第一の特徴が弱いために任意の解釈が採られて危ないところもある。これらの特長を生かし た思想はいろいろあって宗教思想以外にもビジネスもの、人生論、養生術、武術、革命思想など適用範囲は広い。ビジネスものは成功哲学や自己啓発ものとも呼 ばれるが、ここで指摘しているのはいわゆるマニュアル的なノウハウものではなく、どうすれば事業の成功ができるのかを心構えから述べたもので、第一特徴で ある常識的な枠組みから脱することが成功を呼び込むことに生かされ、第二・三特徴も有名な著作では言及されていたりする。人生論の場合もこれの応用ででき ている。養生術や武術に関してはまさに東洋的な活用であり、武術だと合気道が有名だ。養生術には気を用いた健康法であるが、これが他人の身体に向けられる と東洋医学的な治療になる。この辺りにも第一特徴が弱いので、最近の日本だと怪しいことを語る武術家になってしまったりする(内田樹も?)。革命思想では 陽明学が有名どころだ(革命思想と成功哲学は世界への介入の点で似る)。こうしていろいろ見ていって思うのは、神秘体験はたとえ体験できたとしても、それ へのその解釈は自在に(勝手に?)できるし、そこから得られた力をどの方向に発揮するも任意である。ちなみに、神秘思想には一元論と二元論とがあって表面 的には矛盾しているように見える。例えば、二元論的なグノ-シス主義は物質的世界から離脱が目指され、一元論的なシャンカラでは無明を克服することで真の アートマンが目指されるが、どちらも仮の世界から真の世界への到達が目指されている点で似ている(これがハイデガーなら非本来性から本来性へとなるだろ う)。
1270306759 否定神学(的なもの)を端的にダメとか言っている偏見の持ち主はこれを読んでおこう→Togetter - まとめ「『神話が考える』と『意味の論理学』をめぐって」 http://togetter.com/li/12030。否定神学(的な…以降略)の強力さを理解できてないやつには批判の資格などない。おそらく難 点は去勢にあるかもしれないが、否定神学と去勢は別に論ずることが可能だと思う(否定神学にとって去勢は必然的なわけではない)。
1269708128 哲学的な深い問題として死の問題が挙げられることが多いが、私にとってはあまり重要でない。私が早くから老荘思想 の影響を受けたせいもあるが、それよりも死など進化論によって説明できる事実であり、死と生殖(複製)によってこそ進化が生ずるのだから、人間も進化に よって生じたということに過ぎないということである。私にとっての問題はむしろ、なぜ人は生きていかなくてはならないかの方だ。といっても、生きる意義を 見つけたい(例えば仕事や趣味が生きがい)とかそういう話というよりも、そもそも人が生きることを問うことができること自体が謎だ。進化によって生じただ けなら、そんなことを考える余裕や能力なんて別に必要ない。なんでそういう面倒くさい能力が身についたのか疑問でしょうがない。宗教の進化心理学でなされ るように進化的には派生的な能力に過ぎないのかもしれないが、しかしそういう余計な能力を持った動物は他に見あたらないのだから結局は納得がいかない。意 識の問題とも関わりがあるかもしれないが、私は動物にも意識はあるかもしれないと考えているのでちょっと方向性が違う。なぜ私がいるのか?といった独我論 的問題にも興味があまりない(気づいたら既にいたのだからしょうがない。ちなみに、なぜ私はこうなのか?は偶発性の問いなのでこれはこれで興味深い問いだ がこれも違う)。私は死後の世界などをとくには信じていないので、それも理由にならない(どっちにせよ生きている側からは死後を知ることなど不可能だ)。 他にも広い意味での快楽説や社会的な束縛説も考えられるが、前者など一時的なものな上に正の感情がなければ生きていく理由はないのか(苦しい人生はいくら でもいる)と問えてしまうし、後者だって社会的な能力は進化的に身についたのだろうけど、その社会的なものを疑うことができるのだから答えにならない。 と、こうやっていろいろ考えてるうちに神秘思想に接近することになる(生きる気力をつけられるから?)のだけれど、神秘的能力を身につけられるか(これ自 体が既に問題だが)以前に、そもそも神秘的体験に対する解釈があまりに様々であること(成功哲学から神話的解釈まで)が調べていくうちに分かってきて ちょっとげんなりしてくる。これ自体が意味づけする能力によって可能なのだから、結局は元の問題に戻ってしまう。問うことと意味を与えることは表と裏なの だ。
1269620651 アンスコム「インテンション」についてはいろいろと面白い考察をすることができる。アンスコムの説として、自分の 四肢の位置は観察せずとも知ることができることがある。これには例外があって、(脳障害による)半側無視や幻肢の例がある。この場合は自分の腕がある位置 にあると思っていたとしても、実際には腕はその位置になかったり実は腕そのものがなかったりする。もちろんこれは意地悪な例だが、これによって私たちの通 常な状態がどんなものであるかが分かる。さらにアンスコムは、何かを意図して行なっている条件は何を行なっているのか言うことができることであるとしてい る。しかし言い訳や虚偽の発言(過去に対してならは曖昧な記憶)による場合と区別をすることは難しい。「何をしているの」と聞かれて(自分を観察すること なく)「煙草を吸ってる」と答えられたら、それは意図して行なっていることだ(ただしそうしようと意識して行なったという必要はなく、聞かれて始めてそう していると意識したでも十分)。しかし、もしその人が花を踏んでいたとしても、そのことを自分がそうしているのを見ないと気がつかないのならば、それは意 図して行なっていることではない。ところが、そこに上司が通りかかって「何をしている」と聞かれたとする。そこで「彼と企画について話し合っていたところ です」と答えたとする。上司はそこにいた二人が何かを話していたのは知っているが、その内容までは知らないとする。元からその場にいた同僚にはその発言が 間違っていることが分かるが、来たばかりの上司にはそんなことは分からない。いや、本人たちはその発言が間違っていると分かっているのだからそれが意図的 な行為とは言えないとの反論があるかもしれない。そもそもその発言を第三者が間違っているとどうやって知るのかという疑問は放っておいても、それでも問題 は残る。そこで上司や同僚と企画について話しているうちに、だんだんと記憶が曖昧になってきて、挙句の果てに自分たちは企画について話し合うためにここに 来たのだと思い込んだとする。この場合に上司が来る前から企画について話し合っていたんだと思い込んでしまったのだとしたら、何が意図的な行為かなんて さっぱり分からなくなる。
1269533884 以前、認知科学の基礎(http://d.hatena.ne.jp/deepbluedragon /20070712/p1)についてブログで書いたことがあるが、あれは自分で長い間考えてきたことであり、(今なら書き方を変えるだろうけど)基本的な 線はできていると思う。私は認知革命の科学的な意義が理解されないことにずっとむかつき続けていた人間だったのだ(人工知能ブームとかは大事でないと早く から思っていた)。あそこに書いたのは本当の基礎の基礎なので続きを考える必要があるが、うまく考えることができなかった。どのような続編を書くべきかの 予告をあそこに書いてはあるのだが、今考えるとあの内容は認知科学の哲学(力学的アプローチ!)に引っ張られていた感じが強く、私の問題意識に合っていな いところがある。続編として予告したのは強い意味での身体論や環境論の話だが、(部分的な意義は認めるにしても)今となってはそんなことをまじめに受け 取っている人はあまりいなくなってしまった(いたとしても無知か遅れているかのどっちかだ)。身体論や環境論の議論そのものは重要だけど、機能主義を否定 するほどに強くとる必要はない。それよりも問題は全体論や文脈主義の方だと思ってきた。科学的に調べられるのはあくまで心の部分に過ぎない。心の全体論に 関しては進化心理学による俺たちの議論ですべてが説明できるぜ!的な傲慢に対する対処でもあって、そんなに簡単に心について科学的に説明できねえよとの主 張でもある。心の全体論の延長ですべきなのは機能主義と文脈主義の関係であって、機能主義で捉えられる入出力を文脈と関連づけることで機能主義の問題を炙 り出そうという話だ。生態学的アプローチや状況的認知は文脈主義と結びつけた方が理解しやすくなるように思う。つまりある物事を理解するには環境的文脈や 社会的文脈を考慮に入れる必要があるという話になる予定だ。ちなみに、心理学の哲学も似た問題とを扱うが私がそちらには行かないのは、臨床心理学を扱う気 がない(科学的に考えると面倒だらけ)もあるが、それ以上に私が当初から感じていた認知科学の科学的な説得力にあり(科学的なら何でもいい訳ではなく、例 えば統計調査は心の研究としては納得できないところも多い)、今でもそれはくつがえってはいない(フォーダー的な(物理科学に還元されない)認知科学の自 律性テーゼには賛同するところがある。ただし、フォーダーの求める科学の基準は厳密さが強すぎて、実際の認知科学の営みをうまく説明できなくなるのでそこ までは支持しない)。
1269444346 普遍に関する議論の面倒なところは、説をきれいに分類するのが難しいところだ。普遍に関する説にはトロープ説や類 似説があるけれど、この両者と採ることもできるが、一方だけを採用することもできる(トロープなしの類似説)。また、トロープ説が唯名論で有名なのは単一 カテゴリー説になれるからであって、実在論がトロープを認めない排他的な説だからな訳じゃない。
1269444257 (根本的な意見の相違はあれ)宮台真司も佐藤優もネオコンな右翼だけど、小泉旋風の真っ只中では変な事を言ってい ても(他がひどい分)まだ好意的に対することができたが、最近はそれさえもできないぐらいひどいことになってしまった。確かに宮台真司は細かい知識の点で は勉強してそれなりに修正しているが、根本が全く変わらないのでどうしようもなくなっている。ちなみに、アレントを主意主義とするのは安易な話で、「精神 の生活」は一巻が主知主義で二巻が主意主義が扱われているが、判断力や共通感覚が扱われるはずだった最も重要な三巻は刊行されずに終わった。感染云々に関 しても、それが起こりうるなら放っておいても勝手に起こることであり、それ以前に宮台真司自身が感染に当たりする人物に思えない(せいぜいミニミニ宮台君 を生むだけじゃんか)。観念的な国粋右翼になった佐藤優はもっとどうでもいい(高齢のクソ爺に好まれて終わりじゃん)。マサリクとかキリスト教的な話は興 味深いから余計に佐藤優は訳が分からない。ちなみに、あずまんはルソー読解としては興味深いけど、政治思想としては突っ込みどころが多すぎるが、それも 「存在論的、郵便的」での議論の欠点(否定神学への理解の甘さや郵便的に関する議論の甘さ)が具体的な話に転化することによってあらわになっただけに思え る(でもあずまんは哲学そのものにはあまり興味なさそうだからどうでもいい話かもしれない)。それでも周囲の論者に比べればまだレベルが高いのだからしょ うがない。
1269355136 人に心的過程と外的振る舞いがあるように、科学にも内的過程と外的結論がある。科学システムの内側では様々な研究 と研究者間のコミュニケーションが行われていても、科学システムの外側からは科学的事実や真理などのその結論しかほとんど見えない。それが本当に事実や真 実であるかどうかは基本的に科学システム(で行われた内的過程)を信頼するしかない。しかし、そうした科学的事実や真実だけを見て拒否しようとすると反進 化論のような運動になりうるが、それはあくまで科学の外側で生じた運動にすぎない。差し出された科学的事実や真理を受け入れがたく思っても、科学システム の外側にいる素人からはそこへと至った内的過程は見えない。科学的事実や真理を反駁したければ、科学システムの内側に入り込むしかない。しかし(素人のま ま)科学的活動の中に入り込めさえすれば構わないのではない。ただ中に入り込むだけではそこで行われている活動の意義が分からないし、何かを訴えかけよう にも無駄に終わる。科学内の制度や規範を含めた様々なことを学ぶ必要がある。ここで注意すべきは制度や規範によって何でも作り出せるといった俗流構築主義 は誤りであり、自然や現実が人の思い通りになるわけではない。科学システムの内的過程というのは単に観察や報告できるものではなく、意識できない潜在的過 程(暗黙知)を含みこんでおり、(報告や記述できるもののそうする手間とは別に)これ自体は科学の外側にいる素人には伝えることができない。
1269269435 最近は神秘思想とされるものについて少しずつ調べているのだけれど、きちんと調べると神秘思想が悪口で言われる神 秘主義とは関係ないのがよく分かる。神秘思想というと、有名なのは神智学があるが、他にもいろいろとたどってみると、密教はもちろんのこと自然哲学や東洋 思想とも深いつながりがある。(近代化された格闘技とは区別される)元来の武術も東洋思想(道教や儒学)を介してつながりがある。神秘思想の特徴のひとつ は秘儀にあるのだが、(気を用いる)武術の修行には秘儀の要素がある。神秘思想が怪しいとされる原因のひとつは秘儀にあるのだが、秘儀そのものは怪しいも のではなく、シュタイナーの場合などは秘儀を芸術活動と結び付けている。ただ問題は、秘儀の目的は必ずしも目に見えるものではない上に、その目的に達する にはとてつもない修行(と素質)が必要とされる。神秘思想にもいわゆる思想的な側面(例えば陰陽五行説)はあるのだが、それはただ単に勉強して理解できる ものではなく、それに対応する体験が既になければ理解することができない。神智学や密教を書物で勉強してしまうことの危険性はここにあり、いくら神秘思想 を文字面で勉強してもその目的とするところには達せられない。それならまだ瞑想やヨガをする方がマシだが、しかしそれらはもともとがあくまで秘儀なので、 その目的とするところには簡単には達することはできない(だからこそ師から学ぶ必要がある)。神秘思想の面倒なところのひとつにその神話的な側面がある。 グノーシス主義や神智学などは怪しい用語(例えばアストラル体)が使われており、マジに真に受けたら単に反科学や疑似科学にしかならないところがある。そ れらはある種の認識に達するための神話として理解する方が妥当だとは思うが、単に作り話だと思われてしまうと意義が失われるので扱いにくいところがある (曼荼羅やカバラにも似た傾向あり)。それから、神秘思想には治療や気功のような物理的な奇跡が求められてしまう傾向があるが、(たとえそれらの存在を認 めるにしても)そんなところに達せられる人はめったにいないので、これらが科学的な医療や社会改良の代わりになるといった期待はしない方が正しい。要する に、これらは秘儀(または稀な素質)によって身につけるものであって、(現代はもちろん)昔から習得できる人などめったにいなくて普及したことなど一度と してない。現在は昔は門外不出だった技や文献が表に出てるせいで人目に触れやすいが、それらを身のつけられる人がめったにいない事実には変わりがない(別 に現代が近代化によって堕落したわけではない)。かといって、安っぽいスピリチュアル思想(人生論や自己啓蒙との違いが曖昧)や凡庸なエコロジー思想(昔 の人は自然と調和していた?)と一緒にされてしまうのも正直言って困る(勘弁してください)。
1269181905 http://www.araki-labo.jp/nont01.htm→朱子学について調べていたらこのサイ トを見つけたのだが、その内容のあまりの明確さと丁寧さに驚いてしまった。どんな人だろうと調べてみたら、既に七十半ばで亡くなっていたようだ。なんで私 が尊敬できそうな大人は次々に亡くなってしまうのだろうか(残っているのはクズばかり)。というか、1930年前後生まれは学者でもスゴイ人(認知科学で もあの先生とか~)を見かけることが多かったので、世代的な経験のせいかもしれない。日本のウェブにある中ではここの朱子学の解説は分かりやすい(ただし 陽明学に関しては良知の理解がどうも怪しいので注意)。それにしても手頃に手に入る(書き下しではなく)原文つきの近思録が見当たらないのは本当に困った (原文つき伝習録は持ってる)。
1269095290
哲学であれ科学であれ宗教であれそれらへの否定的な批判というのは、基本的にその領域のおける(目に付き やすい)レベルの低い物事に対して行われる傾向がある。宗教ならその狂信ぶり、科学なら環境破壊、哲学なら理念への没入など、その領域の目に余る部分が強 調される。しかし、哲学であれ科学であれ宗教であれその他であれ、もっとレベルの高い高尚な側面がある。世の中で行われている物事で目に付きやすい側面と いうのはたいてい悪く見えやすいものだが、それはその領域への無知からくるものであって、その領域全体がひどいわけではまずない。安易に悪口を真に受けて 気取ってるような奴になってならない。
1269010279 東浩紀と自分の考え方でもっとも大きな違いは、東浩紀がネットワークを理想化(または思想化)しているのに対し て、自分はネットワークを現実的(または科学的)に考えていることだろう。私にとっては現実(進化や経済など)は初めから既にネットワーク的なのであっ て、問題はそのネットワークをどのように理解するかにかかっているのに対して、東浩紀のネットワークには誤配が含まれていなければならないといった匂いが するところだ。もしかしたら東浩紀はネットワークはすべて誤配から成っていると言いたい可能性もあるが、その場合は誤配であるものとないものの違いがなく なるので、そこで言われているのが何かがよく分からなくなるだけだ。ちなみに、東浩紀は否定神学と神秘主義を同一視しているところがあるが、それは私に言 わせれば勘違いで、否定神学からはいくつかの道が開かれていて、その一つが神秘主義であるに過ぎないと思っている。否定神学(または超越論)とネットワー ク論の関係を例を挙げて示せば、適応と遺伝的変異との(近代エピステーメ的)関係が一方にあって、他方で遺伝子や形態の生態学的ネットワークがあって、こ れらは重ね合わせることができる。結果としてすべてが適応的に見えるとしても、その裏では過酷なネットワークが働いているのだ。そもそも理想的なネット ワークなどどこにも存在しえず、それを設計しようとする試み自体がネットワークの中にあるのであり、それ自体が自己言及的な不可能な試みである。理想的な 進化などどこにもないように、理想的な市場(社会的ネットワーク)など人間の頭の中にしかない。進化の舞台でどれだけの残酷さが演じられているか分かって いるのだろうか。
1268927225 行き掛かり上、スコラ哲学っぽい話はtwitterに書いてます。よかったらどうぞ。でも、たぶんtwitterに書くことはこれから先もめったにないと思う→http://twitter.com/deepbluedragon
1268927164 私がここに出しているのはメモやアイデアのレベルに留まっているものばかりだが、このような人目につかないミニブ ログに書くのは気楽でいい。ブログでこの程度のメモを出さないのは、ろくでもないコメントやトラックバックに付き合うのにうんざりしたせいもある(まとも な人ほど読むこと専任なんだろう)が、他人が読むことを意識しないメモばかりのブログが好きでないせいでもある。そういうのは必要な知識を持っていないと 書かれていることの意義が分からないので、(最新の専門的な話題であっても)読んでいてむなしさを感じる。もしかしたら、そのうち何か記事を書けたらブロ グに出す可能性も無きにしも非ずだが、最近はあまり切迫した感じがないのでその可能性も低いだろう(一時は認知科学への誤解に怒っていたせいもある)。
1268838672 >>
「汎神論」は神学(または、有神論)の必然的帰結であり、首尾一貫した神学である。「無神論」は「汎神論」の必然的帰結であり、首尾一貫した「汎神論」である。
汎 神論は、多神論を述語とする一神論である。言い換えれば、汎神論は、多神論の多くの独立した存在を一つの独立した存在の多くの述語、属性としている。たと えば、スピノザは多くの思考する存在の総体としての思考と、多くの延長ある存在の総体としての物質を、一つの実体、すなわち神の属性とした。神は思考する ものであり、神は延長するものである。
「無神論」は、ひっくりかえされた「汎神論」である。
isbn:4003363337からフォイエルバッハ「哲学改革のための暫定的命題」p.97-9より
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自 然哲学的には、多神論か一神論かの違いは相対的な表面的違いでしかない。神の存在を直接に証明できない限りでは、有神論と同様に無神論も信仰である(不可 知論の方がまだ妥当)。神とは人間の創造物であり(特定の)人間の理想を具現化したものに他ならない。汎神論とは神=自然であるが、多神論における自然も (特定の)人間にとって都合のいい理想化された自然に過ぎない(エコロジー幻想!)。一神論も多神論も理想からの疎外という点では同じ穴の狢である。その 点でむしろ必要なのは神学でなく人間学である。
しかし、人間学が理想化された人間像(ヒューマニズム)を持っていなかったと言い切れるだろうか。 アルチュセールによればマルクスはそうしたヒューマニズムを乗り越えたとされているが、晩年になってアルチュセールはそれも程度問題に過ぎないとしてい る。非ヒューマニズムの点では啓示神学(絶対的他者としての神)の方がよっぽど徹底している。しかし、啓示の世界とは過酷な世界であり、そこに所詮は有限 なる人間が生息できるのだろうか。この疑問に答えられた人はまだ誰もいない。
仏教には初めからヒューマニズムなどないが、仏教的な悟りがニヒリズ ムか現状無視かに加担してしまう点では、近代への適応に成功しているとは言いがたい(中世の遺物?)。欲望の放棄を勧めることは、経済問題を等閑視するこ とであり、それ自体が無責任な勧告だ(昔とは状況が違う)。顕教としての仏教にできるのは世俗的なものの相対化までであり、仏教が科学と相性が良い様に見 えるとしても、それは無関心からでしかない(創造理論と比較せよ)。
→以下、(スピリチュアリズムも含む)神秘思想(または密教)の話も書こうとしたが、まだうまく書けそうにない。啓示の話ももっときちんとしないとマズイ気もするが、そちらに本格的に手を伸ばす気は今のところない。
1268798414 最近アンスコム「インテンション」を読んでるのだけど、これがとても面白い。これを読むとネットなどで見かけた行 為論の話にいかにおかしなものが多かったかがよく分かる。行為論を心の哲学を対抗する理論として捉えている人もいるが、これは怪しい。アンスコムは何かを イメージしていることが意思していることではないと言っていて、これで心の哲学への反論だと思っている人がいるが勘違いもいいところだ。心的状態とはそれ を意識していることやイメージしていることとは独立した事態だ。小学生の男の子が同級生の女の子をいじめているのを見て「あの男の子は実はあの子が好きで いじめてる」と言ったする。このとき、その男の子がその子を好きであることを意識している必要は必ずしもない。他人の心を直接に知れない限りにおいて、心 的状態の記述はすべて仮のものであり、相手が何を意識してそれを行なったかさえ正確に知ることができるわけではない。それから「観察に基づかない知識」に 関しても、自分の意思を観察に基づかずに知ることができるではなく、自分が何を行なってるかを観察に基づかずに知ることができるとするのが正しい(だから 自分の四肢の位置とのアナロジーは正しい)。その上で、その行為がどのように記述されるかが問題になる。「何をしているのか」の質問に対して「引き金を引 く」「彼を殺す」「保険金を手に入る」のすべてが同じ行為に適用可能だが、これは行為の範囲に関する問題だ(彼の行為はどこで終了したと言えるのか)。
1268798177 私の知っている範囲に過ぎないが、談話分析の研究で面白いものを見ることはめったにない。語用論的な研究という点 なら、むしろエスノメソロドロジーの方がよっほど面白い(正確にはエスノメソロドロジーは語用論では必ずしもないが)。エスノメソロドロジーの分析の方が よくできている理由の一つは、分析上における制約のなさにあるのだろう。いわゆる談話分析は語用論的なものにこだわりがあって、それが分析を制約している ところがある。エスノメソロドロジーが分析対象として会話を選んでいたとしても、それは分析する対象として都合がよいだけであって、特にそれにこだわりが あるわけではない。エスノメソロドロジーはもともと社会秩序に関する研究であり、そのための分析対象としてコミュニケーション的場面が選ばれているだけ だ。だから、エスノメソロドロジーは語用論つまりは言語に執着がない。ところで考えてみよう。コミュニケーションから語用論的なもの(言語的なもの)だけ を取り出すことが可能だろうか。実際のコミュニケーションではさまざまな情報(声のトーン・表情・顔の向き・身振りなど)が用いられており、どの情報が重 要であるかは自明ではない。私の印象に過ぎないのかもしてないが、エスノメソロドロジーの優れたところはどの情報をどのように分析するかの制約がほとんど ないところだ。語用論研究は(言語への執着を取っ払った上で)コミュニケーション研究に解消されてもいいのかもしれない(ちなみにエスノメソロドロジーの 側も言語哲学や行為論などの哲学への目配せは(あまり意義があるように見えないので)やめていいと思う)。
1268494033 マグロ取引やイルカ漁が話題だが、これを日本の伝統や文化だといって正当化して許してもらおうとしている人もいる が、これは大きな勘違いだ。極端な例を挙げれば伝統や文化だからといって他人を殺したり傷つけたりすることが許されるのだろうか。どんな伝統や文化であれ 検討の対象になりうるのは今の時代では当たり前だ。それから、日本バッシングだと騒ぐやつもいるが、自意識過剰もいいところだ。そもそも欧米は日本に対し て特別に興味があるわけではない。コンプレックスなど出さず、問題になっている話題に注目すべきだ。欧米と価値感が合わないなら、それには説明義務が生じ るだけの話だ。ちなみに個人的な意見を述べれば、イルカ漁は昔なら意義のある行事だったかもしれないが、今となってはかなり怪しいし、実際にわたしには惨 いと感じられる(水銀の問題もあるらしいし)。 
1268404581 (未完成の文章です)
海の向こうではフォーダーらの進化論批判が話題になっているようだが、どうも内容的 にはやっちゃったとしか言いようがない中身のようだ。彼らの進化論批判に関しては話にならないかもしれないが、動機の点では同情すべき点はある。日本の ネットを見てると進化論に関しては何でも擁護しさえすれば進歩的だと信じきっている人たちがいてうんざりするが、残念ながら進化生物学と進化心理学との間 には深い深い溝がある。進化生物学に関しては今や遺伝的浮動も中立進化もエボデボもニッチ構築も含意されており、昔のように適応万能主義という批判は当た らない。まずここは基本として押さえておかないといけない。これを前提にして、進化心理学というのが進化生物学ほどには基盤も証拠もそろっていないことに 注目しないといけない。以前に言語進化論争があったときに、日本ではピンカーらの肩を持つ人がネットでは目立ち、チョムスキーは駄目みたいな雰囲気になっ たことがあるけど、きちんとした検討もせずにそれはないだろうと思ったものだ。それが何かを自分ではろくに検討せずに頭から結論を決めきってしまう人たち は本当に恐ろしい。
まず心を進化論的に扱った議論なら何でも進化心理学を呼ぶのは完全な誤りであり、それはむしろ進化心理学にとって害悪だ。心を 進化論的に扱った議論としては、個人差を扱ったもの・性差を扱ったもの・種を扱ったものが代表的なのだが、進化心理学は種レベルを扱ったものが正統派であ り、その延長で語れる性差までが守備範囲としてはせいぜいだ。遺伝子レベルという議論は直接にはあまり聞かないが、種の保存の議論を許さない点では全般的 に含意はされている。個人差に関してはただでさえ扱うのが困難なのに、ましてや進化云々どころではないところがある(実証的成果は進化心理学的な議論とは 独立した事実であることに注意)。特に現在の個人差の分散と過去の個人差の分散が同じであるかのように語る議論には要注意だ(極端な例を挙げると統合失調 症はそれほど昔までさかのぼれない病なのだから進化的に役に立ったなんて議論は成り立たない)。進化心理学にとってもう一つ大事なのは、人間が進化的に適 応した過去の環境がその後で変化してしまったので、本来の適応機能が果たされていないことだ。宗教の進化心理学はこのタイプの議論が展開されている典型的 なものだ。ただ、困ったことに主に淘汰が生じた過去の環境なるものを知ることができないので、その多くが勝手な想像によって補われている点である。また (人間以外の動物でこの手の議論がされることはめったにないのだから)なぜ人間に限って過去の環境への適応がその後の環境では違うものに変わってしまった のかは単に謎でしかない。最後に、これらの種や環境の話を支えるものとしてモジュール論がある。モジュールとは(例えば言語や視覚のような)心の機能の単 位のことだ。進化心理学の有名になった議論としては(4枚カード問題から導かれた)うそつき検出器があるが、これはむしろミニモジュールと呼んだほうがい いかもしれない。とはいえ、モジュールの単位として何がふさわしいかは必ずしも見解が一致していない。例えば、言語機能がモジュールなのかは昔から議論が あって、今でも解決はしていない。
適応論と進化論(適応論のすべてが進化論と関わりがあるのではないという話の予定だったが、うまく整理できないので省略)
進 化心理学だとされていることがあるが、元々は(今も?)そうではなかった事例を挙げよう。乳糖分解の遺伝子などの例によって「ローカルな」環境から遺伝的 淘汰を持ち出す議論をする人もいるが、そもそも心に関してそうしたローカルな環境の影響をうけた遺伝的な影響が証明された例は全くない。これは人類内で遺 伝的変異の偏りがあることを明かさないといけないが、身体的能力と比べても心的能力は測定上の問題が多い上に、その差が先天的か後天的かを調べるのは困難 だ。(遺伝子決定論に見えてしまうところを脇に置くにしても)こういう人類の普遍性(ヒューマンユニバーサル)に訴えない議論は人類を任意の手段に分ける しかない。
1267941767 ある社会学者の本を眺めていたら生成文法批判が書かれていた。しかし、どうもその批判は統語論を語用論で批判する ようなドゥルーズ&ガタリ並のレベルにか見えないので困ってしまった。その人とは「ルールに従う」問題によって生成文法を批判していたが、そうした批判は いくらでも拡張できる。石を高く持ち上げて手を離せば下に落ちるのは法則の一種だが、これに対して、法則によって石が落ちているのではなく、落ちる石は ルールに従っているだけだ、と批判したら相当にマヌケだ。同じ批判は生物学にも拡張できるがこれ以上はやめておこう。しかし「ルールに従う」問題が生成文 法に生じるのは人間が相手だからだとか言い出したら、なぜ人間だけが特別視されるべき理由があるのかと問えてしまう。物理学であれ生物学であれ生成文法で あれ、そこで提出されている法則が正しいかどうかは経験的に検証する以外にない。「ルールに従う」問題(クリプキのクワス論)があるからって数学が間違っ ているという人は普通いない(いても変人扱いだろう)。専門外の分野に対して無茶な批判をする学者をあまりに良く見かけることには愕然とする(せめてもっ と合理的な批判をしてくれ)。
1267941582 スティッグリッツの近著を眺めていて思ったのだが、日本の経済学ブログで見かける新古典派なんて学派はないやリフ レ政策は主流が認めているとのタイプの批判は見当はずれの無茶な批判だということだ。確かに新古典派なんて学派はないかもしれないが、問題にされているの はそんなことではなくて、新古典派的な方法や考え方が未だに当たり前のように受け入れられている(または未だに影響力がある)ことに問題があるのだ(ス ティッグリッツは情報の不完全性でノーベル経済学賞をもらっている)。リフレ政策を主流が認めているといった擁護もおかしく、主流が認めているかないかに 関わらず、それ自体が検討の対象であり、支持するなら論証的に説得する必要がある(少なくともスティッグリッツは怪しんでいる)。日本は合理的な議論がな かなか成立しない(論点をずらすのだけは得意)なのにうんざりしてくる。
1267848476 宗教が悪の根源みたいな悪口をいう人がいるけど、明示には宗教がさっぱり普及していない日本を見ていても、ここが 特に素晴らしいところだとはさっぱり思えない(自殺率だの公共性だのいろいろ)。確かにアメリカの科学への態度はどうしようもないかもしれないけど、だか らといって日本の科学理解だって偉そうに言えるほどでもない。だいたい宗教を否定する人は恵まれた環境や強い立場にいることがほとんどで、恵まれない人こ そが宗教的なものを求める現実から目をそらす。本当に宗教が必要なくなれば勝手に社会から消え去るのであって、悪口をいくら言っても必要としている人がい る限りそれが消え去ることはない。宗教否定というとマルクス主義を思い出すが、結局は国家社会主義そのものが無根拠な信仰に過ぎないことが分かったのだ。 ヒステリックな点で狂信者と宗教否定者はそっくりな気さえしてくる。
1267624416 私が(熱心でないにしても)それなりにネット活動をしてきた理由の一つは、日本のどこかにはまっとうな議論をでき る人がいるかもしれないという期待だったが、今やこの希望はほぼ完膚なきまでに破られている。巨大掲示板は言うに及ばず、ブログも日本ではネタ的な話ばっ かりで真面目な議論が見られないし、(クソ)真面目なブログもあるがそういうのに限って偏見が強くて(内輪話ではない)合理的な議論は期待できない(信条 と議論はとりあえず分けてくれ)。トゥイッターのようなミニブログも断片的な独白が基本で、開かれた議論ができる仕様にはない。しかも日本では合理的な議 論ができない点では素人も学者も変わりがない。時々英語でブログを書く衝動に駆られるが、残念ながら私の英作文能力は見るに耐えるものではない。合理的な 議論ができない点も含めて、おそらく日本は(その排他性のせいで)どんどん置いてけぼりをくって国際的なものから切り離されてしまうんだなぁと思う。日本 では、救いの道は更なる没落しかないようだ(既に犠牲者いっぱいいるのに…)。
1267624383 似たような進化心理学批判を何度も(翻訳で)見ておきながら全く受け入れる気もない(検討の余地さえな い?)shorebirdさんを見てると怒りを飛び越してあきれる、あれほどの合理主義者のshorebirdさんでさえ偏見から免れないのだ。ちなみ に、道徳的判断の科学的正当性は進化心理学的な議論とは独立である(これは一般的に当てはまる話だ)。
1267512789 気がついてみると、以前はかろうじていくつか見ていたアルファブロガーも、今となってはほとんど見なくなってし まった。(議論や意見は当てにならないにしても)アルファさんなんてもともと情報源としてしか見ていなかったのだが、今となってはそれさえ当てにしなく なってしまった。そういえば、はてなブクマのたくさん付いてるブログ記事って、ネタくさい上に偏見と無知にあふれたくだらない記事が目に付くことが多くて 本当にうんざりする(最近だと読書猿に代表される科学論以外だとベーシックインカム論でくだらないのが目に付く。ちなみにくだらなさに学者か素人かは関係 ない)。日本のブログのろくでもなさを改めて認識し直した(だからとって所詮は私的にしかならないトゥイッターにも期待できないが)。
1267452603 TV番組のカンブリア宮殿で見たタカラトミーの社長はとても魅力的だった。大体の傾向として(成功した)中小企業 の経営者の話の方が面白くて、大企業の社長の話はもっともらしいだけでつまらないことが多い(大企業の人を出すのはやめてくれと何度思ったことか)。(父 親の跡を継ぎながらも工場閉鎖などを経験したせいか)司会の村上龍がタカラトミーの社長を優しさと憂鬱を併せ持った人だと表現していたが、それが魅力の源 かもしれない。世の中どこにどんな人がいるかは分からない
1267371002 町山さんの番組(未公開映画「DELIVER US FROM EVIL」後編)を見たけど、息子への相続を許さないカトリック(だから結婚は駄目)と相続させようとする日本の仏教は対照的だが、どちらも廃頽している ことには変わりがない気がする。これは宗教の独自の問題も含まれているとはいえ、より一般的には組織の持つ問題そのものがある気がする。
1267247724 うぉぉ、Cognitive Dailyブログが終わってしまったぁ~→http://scienceblogs.com/cognitivedaily/2010/01/cognitive_daily_closes_shop_af.php
1267196867 コイン「isbn:9784822284206」は同時期に出たドーキンスの本なんかよりも絶対にお勧めだが、著者コインの進化生物学に比べると進化心理学はきちんとした証拠に基づいた議論が少ないという意見は正しいとつくづく思う
1267168017 日本のネットには進化論に関しては何でも擁護しさえすれば進歩的だと信じきっているっぽい人がいてうんざりしてく る(言語進化論争もその典型だった)が、残念ながら進化生物学と進化心理学とにはかなりの溝がある。shorebirdさんは進化生物学に関してはエキス パートで尊敬に値する人(私自身も多くを学んだ)だが、進化心理学(認知科学)に関してはどうも怪しい。とはいえ、海の向こうでもこのあたりに関しては把 握している学者がきちんといるとはとても言えず、結果として今回のフォーダーらのような騒ぎ(http://hwmh.wordpress.com /2010/02/25/055/)になってしまう(正しい進化心理学批判があればこんな事態は避けられたはず)。進化生物学に関しては確固とした基盤と 証拠があるのだが、進化心理学はそうでもない。詳しい話はしてると切りがないのだが、例えば宗教の進化心理学がスペルベルの議論に則ったものであることを 理解している人がどれだけいるのだろうか。あ~ぁ、進化心理学に関する議論をしようとすると(主に進化)生物学・認知科学・哲学(おそらく多少の社会科 学)の全般に言及しないといけないことになるから、本気で論じるとそれだけで学術的成果になってしまう(しかもこれらを単に知ってるだけでは駄目で大雑把 な見取り図は取れてないといけない)。日本にはそんな素養のある人はいやしないと初めから諦めていたが、アメリカでさえあの事態じゃ先が思いやられる。
1266678637 2010年のラメルハート賞はマクレランドらしい→http://rumelhartprize.org /recipients.htm。それにしても、マクレランドはラメルハートと一緒にPDPモデルのお仕事した学者だから、なんかこの賞に選ばれるのは (それだけの価値の仕事をした大御所とはいえ)なんだか変化な感じだ。
1266678611 http://www.l.u-tokyo.ac.jp/cgi-bin/thesis.cgi?mode=2& amp;id=540。この要旨を読んでいてもいまいち納得できない点が多いのだが、そのせいで軽い批判的な検討には適しているかもしれない(ちなみに私 自身はアンスコムをあまり知らないのでその点を期待すべきでない)。
同じ「観察によらない知識」でも実践的知識と四肢の位置の知識はかなり異なる というのは分かる(アンスコムの出す例が悪いようだ)。しかし『アンスコムが「自分の行為について観察によらずに知ることができる」と言うとき(中略)自 分の行為を「~をすること」というアスペクトの下でとらえるということなのである』と語るのは逃げに近い。アスペクトという用語は野矢さんもよく使う言葉 だが、とてもあいまいで問題のある言葉だ。有名なアスペクトの例はウィトゲンシュタインのウサギ-アヒル図だが、これを持ち出してもアスペクト概念の曖昧 さはさっぱり解消されない(要旨では『アスペクト把握はある意味で知覚から独立したものであり』と言ってるから余計に訳が分からない。ちなみにアスペクト が言葉や概念にどのように依存しているかは面倒な問題だが、だからこそアスペクトを水戸黄門の印籠みたいに使ってほしくない)。
実践的推理という と「~なら~すべし」みたいな倫理学で扱われる推論だと思うが、これを読んでいるとよく分からなくなってくる。どうも素朴心理学(信念と欲求から行為を導 き出す)を自分自身に適用しているだけにも見えてくる。『実践的知識が「知識」たるゆえんは、それが真である(=事実と一致している)という点にあるので はなく、むしろそれが言及している行為を遂行することによって、行為者の欲求が充足されるという点にあるのだ』??これは意識して行なった行為が成功した かで判断される心理学的な行動主義を主張してるのか??それともどのような場合にどのような行為が成功したかを示す確率論的な知識なのか??。なんだか実 践的推理が素朴心理学みたいにしか見えてこないし、そうすると実践的知識との関係がますます分からない(『実践的知識はわれわれが行う実践的推理に由来す る』って実践的知識は観察によらない知識じゃないのか。実践的知識が実践的推理の源になるの間違いじゃないのか?)。
『実践的推理を通じて、観察 によらずに得られる実践的知識が、なぜ実際の行為と一致するのか』???『ヴェルマンによれば、実践的知識が実際の行為の正しい記述になることを保証して いるのは(以下略)』という文章と比べると訳が分からない。自分が「~したい」と思っていることが実際の行為と一致するとすればヴェルマンの言ってること (後者)は理解できる。でも前者の引用部分はさっぱり分からない。正直なところ、要旨を読むだけで曖昧で矛盾したところが多くで困ってしまう。
1265994345 20世紀後半も欧米の哲学では現代思想のブームの裏で形而上学の復興が淡々と行われていた。といっても、分析哲学 の形而上学復興と大陸哲学(主に現象学)の形而上学復興とはかなり性質の異なるもので、前者はアリストテレス的な形而上学で後者は新プラトン主義的な形而 上学が目指されていた点で対照的だ。でも、新プラトン主義はプラトンとアリストテレス(とストア派)の総合なのだから、両者は排他的ではないはずだ。それ らをつなぐ鍵はフッサールを形而上学的に読むことにあると思う。
1265994330 ミニブログがブームではあるけれど、だからといって日本のブログがよかったとも思えない。日本のブログは(芸能人 ブログその他の純娯楽系は脇に置くにしても)どうもネタ臭い話が多くてうんざりする。いや、それでも書いてる本人も読者の側もそれがネタであってほんとか どうか怪しいという前提ならいいのだけれど、そうもそうではないのが目に付いてげんなりする。ちなみに最近だと読書猿がひどい。あやつは科学のことなどろ くに分かってない…少なくとも科学観が論理実証主義並みに古い。というか彼に限らず、その他大勢で古臭い科学観でよく恥ずかしくないな~と思う人は多い。
1265556666 日本の学術機関の問題。(1)学者間の自律した相互評価システムが整っていない→ダメ学者を排除することができず 内輪のなぁなぁになる。(2)民間からの資金調達がほとんど成立していない→外部からの寄付金などがないことで国家依存が強くなる(研究資金は国家が出し てくれて当然?)。しかし、これは明治以降の日本の学術機関の成立の歴史を考えると根深い問題でなかなか解決しづらいと思う。利害関係を持った人がすでに 多くいるのだから基盤のシステムを変えるのは困難だし、現在もそこに適応する人間が生産の最中だ。
1265556656 構築主義のおける構築、精神分析におけるナルシシズム、マルクス主義におけるイデオロギー。これらに共通する誤り はその教説にあるのではなく、際限のない暴露による不毛さにある。すべては構築されているという考え方には一片の真実はある。しかしそれが正しいとして、 あれもこれも構築だと指摘し続けることは無意味ではないにしても切りがない、そもそもこの世にはいかなる形でも構築されないものなどありえないのだから。 もし良き構築と悪しき構築がありえるにしても、それはあくまで外から持ち込まれた規範や理想であって、良し悪しは構築主義そのものから導かれるものではな い。ナルシシズムの場合も同じだ。人は何らかの形で必ずナルシストだ。これは自意識の問題ではない。自分がかわいいと意識していなくても、自分こそが大事 とされる言動をとることはよくあることだ。これは他人を思いやっているとか親切だみたいな話でもない。(本人が否定しようとも)そうした思いや言動がそも そもナルシシズムから発してしていないと誰が否定しきれよう。せめて世間と折り合いをつけられたナルシズムだけが許されるに過ぎない(それが非難されると したらそれは無茶だ)。勝間も香山も資本主義を支えるイデオロギー(個人主義?利己主義?)を抜け出せてない点では同じ穴の狢かもしれない。しかし世の中 は何かしらのイデオロギー(またはヘゲモニー)で浸透されているのであり、あるイデオロギーを否定すること自体に別のイデオロギーが関わっていることにし かならない。いかなるイデオロギーからも逃れられるべきだといった疎外論は成立しない。構築もナルシシズムもイデオロギーもそれ自体が非難されるべきなの ではなく、特定のそれらの問題を分析するしか道はない(ただし安易にそれらから逃れられるという想定はなしの方向で)。何かから自分だけは逃れられる…と 思っている奴に限って何かにより強く拘束されているのだから。
1265381242 「物は落ちる」の知識は地球上では成立するが宇宙空間の中では成立しない。つまり「物は落ちる」において宇宙空間 にはいないことは前提になっている。しかし、この前提は普通は明示化されない。現代ならこの前提はまだ意識化されうるが、宇宙に関する知識のない昔にはさ れえない。全体論によると知識はこうした様々な前提と関わりあって成立しているとされている。では昔の人は「物は落ちる」を現在とは違って間違って理解し ていたのか。しかし、昔の人も「物は落ちる」ことを正しく理解していたことに変わりはない。昔の人にとっては「宇宙空間にはいない」ことは”意識されない 知識”でさえない(そもそも昔の人は宇宙空間について何も知らない)。「宇宙空間にはいない」ことはその人がいる環境によって実現されているのであって、 この前提は潜在的な知識でさえない。こうしたことが問われない限り、知識の全体論はあいまいなものでしかない。
1265380433 ISBN:4782801092をISBN:9784582766837で薦められていたので読んでいるが、これ はとても面白くて勉強になり、再読しても飽きない(というか一読じゃ理解できない)。ただし(論理学に慣れていることは当然としても)言語哲学や心の哲学 の基礎知識を持っていることが前提になる点では上級編の本だ。言語哲学に関しては飯田隆やライカンを初めとした解説書があるのでまだいいのだが、概念役割 意味論や情報論的意味論の議論がこの本にはかなり出てくるので、心の哲学に関しては入門レベルを超えた解説書が日本語で見当たらない点がきついかもしれな い(私自身は洋書に頼ったと言えればかっこいいのだが、実際は複数の日本語の本に頼って知識を自分で構築した)。気が向いたら関連した話でもそのうち書く かもしれない。ちなみに著者の一人がルポアであることを考えると、全体論を成立させるために文脈主義を必要とする結論が出てくるのかもしれない(あくまで 推測だが)。
1265183186 NHK「無縁社会」再放送で見たけど、NHKのドキュメンタリーの常で統計データをほとんど使わないから紹介され る無縁死の例が個人的な問題か社会的な問題かさっぱり分からない。献体や生涯未婚が問題にされていたが、それ自体は価値の問題なのだからそれで文句言われ ても困る。問題は家族と仕事以外ではつながりを持てない日本の社会の問題だと思う(それから教育や葬式などに金がかかりすぎることも)。こうしたNHKの ドキュメンタリーは問題意識は買うけど、同情を誘う作りが強くて私としては評価しがたい。主観性と客観性とのバランスをもっと取ってくれたらなぁと思う。
1265119810 三浦俊彦「可能世界の哲学」を久しぶりに覗いていたら、スーパーヴィーニエンスもメレオロジーも併発や組み合わせという用語で言及されていた。一般的な用語と違うから今まで気づかなかったけど、あらためてこの本はすごいなと思った。
1265119803 文脈主義や実験哲学など最近の分析哲学の認識論は言語哲学化している感が強い。純化された認識論にあまり興味のな い私にとっては歓迎すべき傾向だ。それにしても、どんな話題であれ議論がきっちりとなされる英語圏の分析哲学にはつくづく感心する。そこが日本とは大違い であり、だからこそ日本で分析哲学が発展どころか普及することさえありそうに思えない。下らない話題は下らないで終わり、間違った意見も間違っているで終 わりで、議論の蓄積がさっぱり起きない。議論は議論で分けて行なう気配がほとんどない日本にはうんざりする。ちなみに、私には言語哲学と心の哲学と形而上 学とを互いに関連しあって理解しているところがあるので、だからこそ余計に純化された認識論には意義を感じづらい(真理とは関わりなく単に「知る」という 言葉の分析になってしまえば問題なくなるのになぁ)。
1264956021 マルクス「資本論 第一巻」は最初の難解な貨幣論をとりあえず脇にどけてしまえば、基本的な枠組みは大して難しくない、基本は絶対的剰余価値と相対的剰余価値の違いを捉える ことだ。まず(第一巻は生産過程が扱われているので)工場主を想定しよう。絶対的剰余価値とは要するに(通常時における)各種コスト(労働者の賃金を含 む)を差し引いた上で残る利益のことだ(この場合は自分も競争相手も同じ生産過程を経ているので同じ利益しか出せない)。それに対して、相対剰余価値とは 他の競争相手よりもコストを節約できたときに上乗せされる利益のことだ(マルクスの例では機械の導入)。そして、相対剰余価値はその節約手段が他の競争相 手に普及した時点で(均衡によって)消え去り、絶対的剰余価値へと転換してしまう。この絶対的剰余価値と相対的剰余価値との(弁証法的)関係によって経済 が進展する(マルクスの場合は労働者への搾取によって状況が悪くなることが想定されている。シュムペーター的なイノベーションを想定した場合は経済は発展 することになりえるが、基本的な経済の展開方法は同じ)。ただしマルクスの偉いところは、これらの過程を(へーゲルのように観念的にではなく)歴史的な具 体的分析に則って描いている点だ。しかし、その具体的な分析の裏側には抽象的な弁証法的な過程が隠されている。
1264866744 実はグッドマンの芸術論は今まではあまりよく理解できなかったのだけど、どうもガダマーの倫理学と同じで主要説と のアナロジー(対応関係)によって成立しているのであって、主要説から導かれるではないのではない独立した論なのだと思った。グッドマンの場合は、言語に おける体系(ヴァージョン)と芸術における様式が対応関係にあって、異なる体系によって言説の意味が異なるように、異なる様式によって芸術作品が評価され ているようだ。グッドマンの相対主義が体系から様式へと拡大適用されているのだが、別に前者から後者が導かれる訳ではなく、単にアナロジー的な関係にしか ないようだ。同じように、ガダマーでも解釈学と倫理学とは対応関係にはあっても導出関係にはなく、互いに独立した理論だと考えるのが妥当なように思う。
1264780962 私たちのいる現実世界がどの可能世界であるかが分からないように、フィクションとノンフィクションとの区別はつか ない。どこかでサールが新聞記事と小説とで言葉の使い方にそれらを区別する上で特別な違いは見当たらないと言っていた気がする。「ダヴィンチ・コード」や 司馬遼太郎の小説のように、史料を駆使した作品ではどこからがフィクションなのかを見分けるのは専門家以外には困難だ(それは結局小説じゃん…という人に は取材に則っていながら小説のように書かれたニュー・ジャーナリズムの作品を挙げてもいい)。フィクション(虚構)かどうかなんてことは、テキストだけを 見る限りでは、(信用すべき)約束事としてしか理解できない。これはフィクションですと言われたら、そうなのか!としか言いようがない。これは現実ですと 言われた場合は、きちんと確かめるにはその根拠となる史料なり取材なり研究なりを参照するしかないが、これは一般読者にはそうできることではない。常識や 科学法則にあまりに反したことが描かれている場合はそれがフィクションである可能性は高いが、それだって絶対ではない(例えば超能力や奇跡のような「希 少」な例を「完全に」否定することは実は難しい)。証拠に則って描くことの大変さとか普通の人の想像力は高が知れているとか、そういう現実的な制約を当て にするのがせいぜいかもしれない。(参照→http://www.at-akada.org/blog/2010/01/post-297.html)
1264690001 テレビ番組「美の巨人たち」は初期からずっと見続けているが、選ばれる作品のレベルが高いままなのには驚かされ る。これに比べるとNHKの美術番組はへぼだ。この場合は、番組製作者の芸術鑑賞力が物を言うのであり、それはどの芸術作品を選ぶかで目に見えてしまう。 また、「美の巨人たち」のいいところは作品を解説しすぎないことであり、もっともらしい解説ばかりするNHKとはそこが違うのであり、これも芸術作品への 態度の違いを表している。つまり、芸術について何を語るかは芸術鑑賞力があるかどうかを知る上では二次的な資料であり、それよりも(鑑賞か制作かを問わ ず)芸術作品に対しては芸術作品で対応するのが一番確かといえる(ちなみに同じことは宗教にも言える。科学への応用は保留)。言語ゲーム論には賛成できる ところも多いが、賛同できない点があるとしたらやはり言語を中心に置き過ぎてしまうことだろう。言語行為だけでなく他の様々な行為も含めてゲームのように 理解することができるはずだ。ちなみに、言語ゲーム論(というか行為ゲーム論?)にとって(内面を一切否定する)行動主義は必然的ではないし、だからと いって(絶対的に閉ざされた内面のような)クオリアが必要なわけでもない。どの程度の内面を想定できるかは議論の余地があっていい。
1264689992 芸術的体験や宗教的体験があるとして、それを体験できているのはごく一部の人たちだから、その体験に対応する概念 があったとしても、それを体験している人でなければそれを肉付けすることはできない。対応する体験を持たない人にとってはそれらの概念は空虚なものとして しか理解されない。逆に言えば、芸術的体験や宗教的体験を伝えようとすることは(ありふれた知覚的体験や感情的体験とは違って)それに類似した体験を持っ ている人がいることを当てにして語るしかないことになる。だから、芸術や宗教に関してどんなに高度な現象学的な語りがあったとしても、芸術や宗教について 語る困難には変わりがないことになる。芸術鑑賞力や宗教的素養がない人に対して何を語っても端的に(お話として以上には)通じない。
1264607573 最近、柄谷行人「マルクスその可能性の中心」をチラチラと再読してたら、超越論的イデアという言葉が出てきたが、 これは超越的イデアと言い換えた方が妥当なように思う。この頃の柄谷行人は(宮台真司と共に)超越論的と超越的の区別がついていない。それでも「探求Ⅱ」 の頃になると超越論的の意味はより正確になる(超越論的には内側と外側・超越と内在・主観と客観などの対立を解消する含意もある)。否定神学的もそうだけ ど、ある種の哲学用語はあまりよく理解されないままに批判対象になりがちだ。超越論的の用語は、カントからフッサールまでの系譜があり(「存在と時間」で はまだ超越論的な用語を含んでいる)、(フーコーの言う)近代エピステーメーの基本なのだからもうちょっと理解してもらわないと話にならない。
1264132459 これはひどい→ISBN:9784062919791。以前読んだニーチェ論がよかったから期待してたけど、これ は全くベンヤミンを読めてない。ベンヤミンは好き勝手に読まれがちなので多少は期待してたのだが、完全な期待外れだ。私の知っている範囲でベンヤミン読み として信頼できる唯一の学者は山口裕之だ。ISBN:4409040588はしっかりとしたテキスト読解に則ったすばらしい著作だ。この著作はベンヤミン の完成されたテキストだけを扱っている(つまりパサージュ論はとりあえず外す)が、これはとてもよい姿勢だ。ベンヤミンは断片的だから素晴らしいとか言っ ている学者は死んでください。
1264132440 文献メモ:ISBN:4762826995 ISBN:478851186X
1263712461 社会科学が単に科学的になれないのは、それがあくまで近代(政治や経済など)に関する学問であり、一般的に社会を 客観的に調べるだけではないからだ。たとえ異文化や遠い過去を調べていても近代との比較が隠れた形で含まれざるを得ない。日本で社会科学(社会哲学も?) がうまく馴染まないのはそこに原因があるんじゃないかと思う。とはいえ、社会科学の危機は日本だけの問題じゃないようにも私には見えるのだが…
1263712439 どうも日本には老子(道徳経)の上篇(道篇)の第一を根本から理解できない人が目立つ気がしてきた。「道を道であ ると言えてしまったら、それは永遠の道ではない。名を名づけることができたら、それは永遠の名ではない。名のなきところこそが天地の始まりであり、名のあ るところから万物が生じる」(引用者訳)。西洋文化(同等の例では否定神学)が理解できていないだけならまだしも、東洋文化さえ駄目だったらどうしようも ないじゃないか。…と「ありそうもなさが存在するにもかかわらず、形式が可能になるのはいかにしてなのか」なるルーマンの言葉を(賛否以前に)理解できて いないかのような錯乱野郎を見てつくづく思った。
1263141390 最近の関心事。近代エピステーメにおいて顕在化されてきたヘレニズムとヘブライイズムの対立。カントに潜在的に含 まれていたこの対立がレヴィナスやデリダなどのユダヤ系思想にまで至って露出するようになった。西洋文化に馴染みのない日本人向けに翻訳すると、これは科 学と宗教の対立でもあり知性と実践の対立でもある。あとは、分析哲学を概念化を中心に理解すること。きっかけはマクダウェルがディヴィッドソンと共に純粋 な概念だけによる理論を作り出し、知覚などの非概念的なものを追い出していると気づいたことだ。するとダメットのディヴィッドソン批判がそこに向かってい ることが分かるようになった。と同時にポスト・クワインの哲学が感覚データを如何に追い出すかに向けられてことも分かる。ただし(野矢さんには悪いが)語 られるものを語られざるもので支えるってだけじゃ何も言ったことにならない(それはプラトン「テアイテトス」からある問題だ)。あれ?ならばこれは最初に 述べた近代エピステーメの問題とも結びつくねぇ(ただし知性と感性の対立になるが)。なんだか自分の問題意識に合うならば分析哲学だろうが現代思想だろう が認知科学だろうが何でも構わないんだなぁと思う
1263141380 ブログの場合はトラックバック活用してやるぜとか、そういう積極的な気持ちがまだ生じたが、(IDは一応あるが) 流行のtwitterにはそんな気がまったく起こらない。あれはやっぱり公開版SNS(つながりたい願望を満たすもの)じゃないかという疑惑はぬぐいきれ ない。twitterはあくまで独り言の積み重ねであり、議論をできる仕様にはなっていない(厳しい文字数制限や議論全体を外からは見れないなど)。嫌な 奴をブロックできるクリーンな気持ちのいい場所は居心地はいいかもしれないけど(錯乱野郎で嫌な思いをした私でさえ)それでいいのかは(大袈裟かもしれな いが)疑惑を感じてしまう。ただある種の人たちには格好の遊び場なのだなとは感じる(そして少なくとも私はそこから遠いのだろう)。私は人知れず地味にこ こに何かか書いていればそれでいいや
1261931336 ISBN:9784062584265でコーヘンの「ユダヤ教の源泉からの理性の宗教」が紹介されていて、カッ シーラーがこれをカント倫理学の完成だとしているのをローゼンツヴァイクが批判している。しかし、ISBN:4480056297を見るとカント晩年の著 作である「単なる理性の限界内における宗教」が取り上げられているが、どう考えても(新カント派である)コーヘンの著作はこれを意識していると考えるのが 自然だ。実際にそこでのカント紹介を見ると、啓示宗教は理性宗教をまるごと含みこんでいるので、ますますそう確信せざるを得ない。カントの宗教論は注目さ れてこなかったとはいえ、(ハイデガーと共に)現代ユダヤ思想も近代エピステーメーに沿っているのではという疑念は拭えない。
1261720232 ユダヤ思想史について日本語で知ろうとしても難しい。ネットで調べてもキリスト教的な偏見や差別(ユダヤ人は金の 亡者?)を安易に受け入れた話が目立ってぜんぜん使えない。ユダヤ人の歴史ならポール・ジョンソンのISBN:4198925321がとりあえずお勧めだ が、なぜか啓蒙主義期のユダヤ人解放がむやみに弱い。私の場合はアブラム・レオン ザハルの大著ISBN:4750317616で補ったが、それでもユダヤ思想史についてはいまいちよく分からない。ブーバーの ISBN:4003365518は有名だが、そもそもこれがユダヤ思想においてどう位置づけられるのかが分からないのだからしょうがない。 ISBN:9784062584265は面白いのでお勧めだが、これだけではユダヤ思想については分かりにくいし、正直なところこの本は現代思想(現代哲 学)についてある程度知識がないと意義が分かりにくい気がする。
ちょっと古い本だが参考になったのはユダヤ教の専門家である石田友雄の ISBN:4634430401だ。古代の聖書時代に関しては上で紹介したユダヤ人の歴史を読むほうが面白いと思うが、ユダヤ思想史となるとこの本は便利 だ。正統派のラビ的思想(律法と口伝律法)に始まり、中世のユダヤ思想であるマイモニデス(スコラ哲学)やカバラ(神秘主義)、近代に入ってからのハスカ ラー(啓蒙主義)やハシディズム(敬虔主義)やシオニズム(民族主義)に至るまで(大雑把ではあるが)分かりやすく描かれている。日本でユダヤ思想という とどうしても偏ったものばかりになってしまうが、こういう通史(または概論)もないと本当に困る。
ちなみに、あるユダヤ事典を見ていたら、日本で ユダヤ人に関するトンデモ本がよく出版されるのは日本人にとってユダヤ人が宇宙人と同じ存在だから…とあって笑った(ははっ!他にも当てはまる事例がいっ ぱいありそう。日本での言論の自由は現実と無関連な限りにおいてだ…という山本七平の江戸時代の話は現代にも当てはまる気がする)。
1261412086 ドゥルーズ&ガタリがラカン(的なもの)を乗り越えたと言っているにしても、マルクスがヘーゲル(的な弁証法)を ひっくり返すことで乗り越えたこととたいして変わりがない。しかし、マルクスがヘーゲル哲学を文字通りに乗り超えたなんて今となっては素朴な考えに過ぎな い。例えば「千のプラトー」での遊牧論から捕獲装置へ流れは(彼らの言うところの)ラカン的(否定神学的?)とされるものに対するひっくり返しになっては いる(公理系からの逸脱という考えの拒否)。だが、マルクスと同じでひっくり返すだけで乗り越えたことになるかは疑問でしかない。ただ、マルクスには地味 で具体的な分析があるけどそれに比べると…
1261412047 日本で見かける否定神学批判の言論は、否定神学が古代から伝承された深い思想であることを無視した安っぽい議論で しかない。デリダなどが論ずる否定神学は特殊な狭い定義であり、古代から続く伝統的な否定神学とはあまり関係がない。否定神学が云々言うやつはキリスト教 文献は無理でもせめて(同型の思想と言える)ソクラテスや老子や大乗仏教を読んでおくベきだ。その深さを理解した上でなら批判しても構わないが、私の知る 限りそんなやつはろくにいない。
1261323656 フランス現代思想と一括されることが多いが、アルチュセール好きの私からするとこれは納得できない話だ、アルチュ セールはスピリチュアリズムから続くフランスの唯心論的な伝統が大嫌いだが、ベルクソン→ドゥルーズの系譜はまさにこれを代表する。カンギレム→アルチュ セールの系譜はそれとはまったく異なる。ただややこしいのは、カンギレム→アルチュセールの系譜を受け継ぐフーコーが実はドゥルーズ好きなことだ。しか し、接点がないわけではない。カンギレムは生気論の概念的分析を行っているが、ドゥルーズは生気論を実体化している臭いがする(が生気論を扱っていること に変わりはない)。
1261320772 個体(時空)のメレオロジーは(古代)アトム論とそっくりで性質を語るのが苦手だ。メレオロジーやアトム論の中に はそのままでは性質の説明が含まれていなくて、アトム論の場合は付け足しのようにアトムの中に種子があるなどの議論が補足される。個体(時空)のメレオロ ジーもそれだけでは性質(本質や普遍)について語ることはできない。
1261106524 どうも日本では心の哲学の話は(素人か学者に係わらず)単なるネタにされやすい。つまり分析哲学的な議論に則るわ けではなく、有名な議論をつまみ食いして自分の意見に(強引に)引き寄せる傾向が強い。そういうのはもっともらしいだけの話になりやすくあまり勉強になら ないのでお勧めできない。おそらくそのきっかけはやっぱりモギッチじゃないかという印象が強い。私もその点では既に諦めている。感情を認知科学は扱えない とか(じゃあ科学的にどう扱えばいいか教えてくれ、主観や調査でいいだったら怒る)そういう自己目的化した批判の氾濫にはうんざり
1261106478 誰とは言わないけれど、科学を思想化するやつが嫌いだ。科学はあくまで科学であり、何が正しい説かは研究の積み重 ねと学者間のコミュニケーションによって決まる。科学を思想化するとは、これから変化するはずの説を固定化し観察されるに過ぎないものを規範へと変化させ ることにつながる。社会生物学や生成文法などに関してこうした勘違いはよく見られるが、それは思想と科学を取り違えた勘違いでしかない(自然主義的誤 謬!)。ある有名ブロガーはチョムスキーを読み込んでいて学説としての理解は案外正しいのだが、科学としての側面を軽視していて勘違いしてしまっている。 学説としての理解と科学としての理解が乖離してしまうのは問題がある。
1260850468 グラシムと後期ウィトゲンシュタインが両者ともスラッファを介していることを知って驚いた。特に進化と歴史を同一 視する自然史的思考はすごい。これは進化心理学や数学の身体的基盤を訴える認知言語学の考え方と轍を一緒にする。自然的と社会的を最終的には分けない思考 法は(科学的であることも含めて)私には魅力的だ。しかし、これを自然主義と関わらせるとややこしい。最近は自然主義が持てはやされており、それは進化心 理学の隆盛などを考えると理解はできる。だが、フッサールによる自然主義批判には見るべきところがある。だいたい、数学や論理を端的に自然主義的に考えて しまうのは、倫理の自然主義的誤謬にも似た罠にはまっている。科学は数学や論理によって自然を捉える(しかない)が、数学や論理を端的に自然の側に組み入 れてしまうと堂々巡りの循環が生じる(自然によって自然を語る?)。この循環に気づいていない分だけ自然主義者は素朴だ。それならむしろプラトニズムを採 用する方がまだ納得がいく。
1260553918 ISBN:9784062764728は素晴らしく読み応えがある。ISBN:9784588001765は素晴 らしく読み甲斐がある(今まで翻訳がなかったのが謎だ)。いや(最近読んだ)これらについて書きたいことがないわけでもないのだが、書くのが大変なのでと りあえず賞賛だけ書く。
1260369272 ISBN:4061496751はすでに一般的な評価が高く、私も素晴らしい本として薦めていいが、あえて苦言を 書く。前期から中期にかけては様々な資料が見事に参照されており、読んでいて発見が多くいろいろと啓発されたのだが、後期から晩期になると発見や啓発が失 われる。後期に関しては、探求前半はほとんどクりプキをなぞっているだけであり探求後半になると解説としてさえ物足りない。結果として私の持っていた「哲 学探究」への以前からのモヤモヤは何一つ解消されなかった。晩期の記述はそこまではひどくないけれど、晩期を後期に近づけすぎる傾向が強く、読み込みの甘 さを感じた。例えば命題という考え方は後期では否定的だったのが晩期には蘇っているし、色彩の文法も込みで考えると晩期は中期の問題に返っている印象がす る。前期から中期に関してはかなり満足がいくが、後期から晩期に関してはまだまだ研究の余地があるといったところか。ちなみに、橋爪大三郎のウィトゲン シュタイン理解はむしろH.L.A.ハートの解釈だと思って読むが妥当だ(要するに様々にある解釈のうちの一つに過ぎない)。後期は解釈があまりに多様で 納得のいく説明を見たことがない。
1259993342 ライルやオースティンら日常言語学派の概念分析がアリストテレスの弁証と関連しているとやっと気づいた。日常言語 学派に関しては語用論だの構築主義だの言語ゲーム論だのといろいろに語られいてうまく整理できないところがあった。しかし、彼らの概念分析が本当に概念 (だけ)の分析であることが分かり、オースティンが参照しているのがアリステレスの「二コマコス倫理学」や「トピカ」であったこと(ライルの場合はストア 派)を思い出し、それらが結びついた。私はアリストテレスの論証・弁証・弁論に関しては以前から考えていたことがあったのだが、他人には意義が理解できな いだろうと封印してきた。その封印してきた弁証論と日常言語学派が今になって結びついてきた。論証とは論理学や数学の証明のように必然的な体系を前提にし た議論であり、弁論は(真偽とは無関係に)相手を説得することを目的とした実践的なマニュアルなのだが、「トピカ」で扱われ「二コマコス倫理学」で応用さ れている弁証術(問答法)は一般的にほとんど理解されていない(ストア派の問答法も同じ)。弁証とは必然的な体系でもマニュアルでもなく、概念同士の関係 を調べる方法である(だからトピカは論法集と訳すと適切だ)。弁証は論証と同じく論理を用いはするが体系を前提としない。弁証術は実際の対話で用いること ができる点で実践的だが、説得が目的化している弁論のように内容がどうでもいい訳ではない。
1259338289 現代思想におけるアルチュセールやフーコーの前期から後期への変異(または人類学におけるレヴィ=ストロースから ピエール・ブルューへ)、科学哲学におけるポパーやクーンからファイヤアーベントやラカトシュを介してラトゥールやハッキングへ、認知革命における第一波 から第二波へ、というそれぞれの流れは同じ傾向がある。言語・概念的なものから身体・活動的なものへの転換であり、と同時にその後の発展の困難による後者 の停滞である。身体・活動的なものが重要であるのは正しいが、それをどう扱えばいいのかには困難が伴う。これに気づいていない時点で、安易な論者はこの問 題をまじめに考えてなどいない。ハイデガー的な基礎存在論バンザイで話が済むなら誰も苦労しない(その後のハイデガーの展開を見よ)。後期ウィトゲンシュ タイン最高で済むなら勝手にすればいい(ウィトゲンシュタイン主義者の堂々巡りに目を見開け)。ある種の思想やスローガンに陶酔する日本の論者の不毛さに はもううんざりだ。外国(デカルト!一神教!)に勝手に敵を見出して懸命に批判するだけなのはむなしいのでやめてくれと思う(それは日本の問題じゃねぇだ ろう)。もっと問題意識を持って(正確な理解の下に)物事を論じてくれと本当に思う。
1259338224 日本は技術レベルでのエコロジーはレベルが高いかもしれないが、生活レベルのでエコロジーは最悪に近いかもしれな い。西洋を環境破壊の源泉みたいに批判する人が日本にはいるけど、当の日本の方がよっぽどひどい。二酸化炭素削減の例を見れば分かるように、日本は口先だ けのスローガンばかりが流行って、現実に対してはろくな対処ができない。科学技術の恩恵を受けておきながら科学技術を否定する馬鹿も目立ちやすい。科学技 術の恩恵は自然の恵みじゃねぇよ。エコとか言ってる奴に限って意識ばかりが先行して現実なんて見る気がない自己満足じゃないかと邪推したくなる。科学技術 を口先だけで否定するお前らこそが環境破壊の一番の原因じゃねぇのか?
1259078797 ISBN:9784062584548。これは前半は面白く読めたが、後半は(私が倫理学的な話が苦手なためも あって)面白く読めなかった。最後の共通善の擁護自体は分かったけど、トマスの共通善そのものはよく分からなかった(ロールズとの違いは?)。全体的に (最終章以外は)ある二項対立を退けるトマスという形をとっている。形而上学と否定神学、三位一体の二つの説、創造論と進化論、善と悪、事実と価値。ただ し、事実と価値の対立についてはその後の議論で解消されているように見えない。トマス哲学へのハイデガー・現代思想的な(またはジルソン的な?)接近であ り、スコラ哲学のスコラ的な側面はあまりのぞけない(参照はあっても引用は少ない)。その点で、アンソニー・ケニーの分析哲学的なトマス哲学解説とは異な る。
1258825556 最近、法哲学(特にH.L.A.ハートの説)について読んで思ったことは、哲学的な概念分析は(ライルであれオー スティンであれ)概念の使われ方を分析することが目的であって(社会学などの一部の論者が含意しているような)構築主義を前提にする必要はない(その点で は存在論を前提としない意味論に似ている。何があるかについては端的に関与しない)。日常言語学派は日常言語を分析することで哲学的問題を(解決ではな く)解消することが目的だったが、その本来の目的は限定的なものになったとはいえ、日常言語の分析そのものはより広い射程を持つようになった。これから本 当にすべきは(英語の分析の単なる輸入ではなく)母国語である日本語で分析することだ。
1258562119 同じく全体部分関係を用いるメレオロジーといっても個体(時空)のメレオロジーと性質のメレオロジーではかなり違 う。一般的にメレオロジーとして扱われているのは個体のメレオロジーであり、主に(時空を通しての)対象の同一性を論ずるのに適している。対して、性質の メレオロジーはフッサールに由来し普遍問題を論ずるのに適しているのだが、これを扱っている現代哲学者は比較的少ない (http://web.cc.yamaguchi-u.ac.jp/~yasu/universal/node36.htmlも参照)。どうも日本では このあたりの区別がよく分かっていない人を見かけるようば」気がする。個体のメレオロジーで普遍問題を扱うのはできないわけではないが、そのまま素直にで きるわけではないことに注意すべきだ。個体を設定した後に普遍を抽出するという二段階が必要だが、第二段階ではメレオロジーは必ずしも必要ではない。
1258393632 中期パトナムの転回にダメットの影響があることは有名だが、その頃の彼の論文を読んでいてあることに気づく。パト ナムはスコーレム=レーヴェンハイムの定理によってモデル論的意味論に疑惑を持つことによって転回が生じた。内的実在論のパトナムは検証主義だと言われる が、この呼び名は誤解を招きやすい。どうもパトナムはモデル論(言語と世界の対応)を手放して(言語の内側での)整合主義に走った印象がある。というか、 そう考えないとつじつまが合わない。パトナムが果たしたのは古典的真理条件から認識論的整合主義への転換であって、これはダメットとは異なる立場だ。ダ メットはあくまで(認識論とは区別された)言語哲学の立場であり、実際にダメットの批判は(ローティが純粋な言語哲学と呼んだ)デイヴィドソンの真理条件 意味論へのものである。同じ反実在論でもパトナムとダメットでは立場が相当に異なる。
1258393580 ローティは(超越的な真を求める)認識論が混じった言語哲学だとしてクワインを批判していたが、これと同じことが マクダウェルやパトナムにも当てはまる。言語哲学ではどのように理解しているか(私にとって真)だけを求めるのであって、それ以上の余計な真を求める必要 はない。ローティのような相対主義はやりすぎだと思うが、言語哲学から(社会化された)認識論を派生できればそれで十分だと思う。しかし、ローティはダ メットを認識論と勘違いして批判しているが、これは見当違いだと思う。ダメットはセラーズと同じで社会的に学ばれる正当化を問題にしていたのだと思う。ダ メットもセラーズも社会化された根拠を求めたのであって、究極的な根拠など求めていない。ちなみに(これは必ずしも欠点でもないが)日本は正当化が潜在化 されやすい(つまり文脈や知識に極度に依存した)コミュニケーションをとりやすい傾向がある。
1257921055 つい最近まで例の面倒な病気の治療でしばらく入院していたのだが、そこで思いがけない出来事に出会った。同室に自 分と同じ医師に見てもらっている(おそらく同じ病気の)患者さんがいたのだが、その人がとうぜん頭が痛いと看護士を呼んだ。その患者は頭が痛いと叫びなが ら嘔吐を繰り返した。看護士は手や足を触って感覚があるかを確かめたりをしていたのだが、その次の瞬間におかしな言葉が聞こえた。それはその患者が発した ものだったが、正確には、イントネーションだけは言葉っぽいけれど単語や文法を一切含まない語の並びには何の意味もないものだった。ついさっきまで看護士 と普通に応答できていたのに、いきなりそんなおかしな言葉(?)を聞いてしまい、私はもしかしたら脳の言語機能の一部がやられたかもしれないと思った。そ ういえば、その患者さんが看護士に脳梗塞かもしれないと口走っていたようだ(自覚できるものなのか?)。その後、その患者さんはどこかに運ばれてゆき、後 から脳の血管が切れたので脳外科に移されたという話を耳にした。私もまさかそんなところで、そんな出来事に出くわすなんて思ってもみなかった。とつぜん しゃべっている言葉が言葉でなくなってしまう出来事というのは、身近で体験してみるとショッキングな出来事だった。しかし、そのとき発せられた言葉(?) を覚えてればよかったのだが、当然の出来事だったことと治療の苦しさで自分はそれどころじゃなかったことが重なってさっぱり覚えていない。イントネーショ ンだけには何か意味のある言葉をしゃべろうとしていた痕跡が残っていたのが印象的だった。
1255063296 id:optical_frog さんに翻訳しないでくださいなんて大そうなこと私には言えません。 optical_frogさん以外にも見ている人がいるといいなぁという勝手な想像で書きました。誤解を与えてすいません。気が向いたときに好きなだけ訳 しちゃっても全然かまいません(比較優位を働かせてしまいましょう)。
1255011073 id:optical_frogさん、さっそくの翻訳へのご協力ありがとうございます。ただOptical frogほどの翻訳の手だれが訳に参加するとなると、ほぼOptical frogさんの単独訳になってしまうのではという危惧が…。ちなみに、参考までにこの企画に関連した経緯は次も参考にしてください →http://ja.cognitivesciences.wikia.com/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83 %88:Hilary_Putnam%22The_Nature_of_Mental_States%22%E7%BF%BB%E8%A8%B3%E3 %83%97%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%AF%E3%83%88。まだ始まったばかりで翻訳以外にもやるべき ことはいくらでもあります(例えばテキストの整理や誤記の確認)。小さなことでもいいですので、ぜひご協力お願いいたします。
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http://bunsekitetsugaku.seesaa.net/article /127015690.html←ここまで見事に逃げに入られるとむしろ感心する。要するに、もうここにはコメントを書かんでくれというメッセージなのだ ろう(もとよりこれ以上は書き気もないが)。文法的に駄目はネットで見かける常套手段だけど、考えてみるとこれってものすごい言い訳だな。言ってることが 理解できないなら素直にあなたの言ってることが分からないで済ますことさえしないってのが…
1254990555 ブログに書くのはためらわれるのでここで宣伝。こちらのWikiで認知科学の古典翻訳プロジェクトを実施中ですの で、よろしければご協力ください→http://ja.cognitivesciences.wikia.com/wiki/%E8%AA%AD%E6 %9B%B8%E4%BC%9A%EF%BC%9AHilary_Putnam_%22The_Nature_of_Mental_States%22。 ノートでの議論だけの参加や訳してみたい文献の提案などどんな参加法でも構いませんのでぜひどうぞ
1253083365 例のあるブログ(http://d.hatena.ne.jp/deepbluedragon/20090812 からリンクされているブログ)へのコメント。返答を見たけど、頭から私のことを敵対視してきて議論できそうな相手ではなさそうだ。学者だからってちょっと でも期待した自分が馬鹿だった。あそこであのまま続けても泥沼そう(勝ち負けにこだわってそうな人が相手だと…)なので、ここに書きたいことを書いてみ る。→あの文脈で私がリンクしてるってことはそのサイトの見解に賛同してるってことじゃないか?すべて書いてたら日が暮れるって趣旨のことは既に言ったは ずじゃないかよ、おいおい。生成文法だって部分的な文法的決定は扱うけど、(会話などにおける)言葉全体の決定を扱うわけではない。彼の言う合理的決定は 言葉全体の決定のようにしか思えないから、変な批判だ(合理的決定という考え自体が限定合理性などの点から問題があることは脇に置くとしてもだ)。私は心 理学出身なのに、心理言語学(=言語心理学)を誤解してると来た。その可能性は否定しないけれど、いくらなんでも自分は正しくて相手は間違っていると決め 付けすぎじゃないか。そこまで言うなら、せめて生成文法のどこが制約を無視しているのか具体的に示してほしかった(ちなみに指摘しておくとジャケンドフも 生成文法の側だ)。そもそも生成文法に関しては素人だと言ってたその口で、自分の方が生成文法を正しく理解してるかのようにしゃべられると困惑する。おそ らく私のブログはリンクしたところでさえろくに読んでいない気配がする。批判が自己目的化された人に対していったい何を言えばこっちの言うことを聞いても らえるのだろうか(多分無理な気がする)。
1253083270 例のブログで返答が帰ってくる前に用意していたコメントの転用
あなたは(チョムスキーの一般向け著作では なく)生成文法そのもの研究論文や著作を一つでも読んだことがあるのですか。もし読んでも理解できないというのなら、理解できない対象を適当に批判するな んてことはしないのが、学者の良心ってもんじゃないんですか。せっかくの学者による書評なんですから、知識に則った批判を書くのが筋ってもんじゃないんで すか。少なくとも私は、学者から素人的意見をわざわざ聞きたいとは思わない(素人の見解はネットに山のようにある)。(正しく理解しようとした努力さえ見 られない)間違った批判をいくらされても学問的には何の貢献もないんじゃないんですか。あとそれから、一応私は始めてのコメントでしかも敵対的に接してい るわけじゃないんだから、いきなり(2チャン的な?)高圧的な態度を採ることはないんじゃないんですか。特に日本は内容批判と人格批判がごっちゃになりや すいのだから、言葉遣いなどには特別に気をつけないとまっとうな議論なんていつまでたってもできません(そもそもする気がないなら話は別ですが)
1252721065 フッサールは束説か基体説か。ピータ・サイモンズの論文ではフッサールは束説であるかのように描かれているが、谷 徹の現象学本のフッサール紹介でははっきりと基体という言葉が記されている。基づけの用いられ方もピータ・サイモンズと谷徹では天と地ほども違う。とはい え、ピータ・サイモンズの参照が「論理学研究」なのに対して谷徹は「イデーン」以降が中心なのが原因かもしれない。いや、でも谷徹も「論理学研究」を参照 してるからやっぱり変だ。(サイモンズが言及しているので)メレオロジーが「論理学研究」のどの辺りに書かれているかははっきりとしているし。う~ん??
1252721033 哲学にとって思考法が大切なように、科学にとっては研究法が大事である。どんなに深遠な意見や立派な反論であって も、最終的に具体的な研究法を提示できなければそれは(科学ではなく)単なる思想にしかならない。生成文法のいいところは研究プログラムとして成立してい るところであって、日本で安易になされる生成文法批判はこれが分かっていない。認知言語学はもちろん研究としては成立しているが、一般的な研究プログラム の提示には必ずしも成功していない。日本はもっともらしいだけの意見が流通しやすいが、そういうのは(大概無知による)非生産的な批判でしかないことが多 い。表面的な正しさしかない思想をまっとうな科学と一緒にしてほしくない。
1252721018 どうも、ご無沙汰です。実は面倒な病気にかかって、八月末に手術のために入院して、現在はリハビリ中(でも治療は まだ続く)。それ以来ネットへの関心はぐんぐん下がっている。それでも最近(私は他ではめったにコメントはしないのだが)あるブログで(初めて)コメント したら、高飛車な2チャンネル的な態度をいきなりとられたので、(学者の癖に議論が出来そうな相手ではなさそうなので)興味が一気に失われた。2チャン的 態度が誰にでも通用するなんて甘えです。
1250697213 ある言葉(例えば「夕日は赤い」)に対して、そうじゃないかと指で指し示すのも正当化だし、教科書にそう描いてあ るからだというのも正当化だし、これは物語だというのも正当化だ。注意すべきは認識論的な正当化と言語哲学的な正当化を分けること。言語哲学的な正当化に とっては私(または私たち)にとって真であるための正当化だけが分かれば十分であって、超越的な真はいらない。正当化もそのすべてが明示化できるわけでは なく、暗黙の内に行なわれる正当化もある。暗黙の正当化が増えることは、一方で余計な説明を省いてコミュニケーションのレベルを上げることができるし、他 方で事情を知らない他人には理解できない内輪な話になっていくことでもある。

1250604365 方言の例を出すと分かりやすい。方言とは標準語に対して偏った言葉という意味だが、しかし(ちょっと考えれば分か るように)標準語が先にあって方言が派生してきたわけではない。諸々の方言が先にあって、それが融合なり何なりして標準語が浮かび上がってきたのだ。方言 という呼び名はそれ自体が偏見を含んでいる。つまり、様々な違い(言語の差異)こそが先にあって、言語の同一性(らしきもの)は差異が関連しあった効果で しかない。こうした差異的な思考法は現代思想の産物でもあるが、抽象的なばかりで具体的な適用があまり見られない。差異が先で同一性は後というのは一般的 によく見られる傾向である。
1250604316 言葉の意味は生物種や文化に似ている。生物種や文化は同一性を持った実体などでは断じてなく、生物種が遺伝子の生 殖的ネットワークの効果であるように、文化は人の経験的ネットワークの効果に過ぎない。だからといって生物種や文化に意義がないというのは言い過ぎで、見 かけ上は曖昧な境界が見出せなくもない。これと同じで、言葉の意味も使用的ネットワークの効果に過ぎないが、だからって言葉の意味に位置づけを与えられな いわけではない。(根拠はあれど)言葉の意味はないという結論は哲学的な極端さの表れでしかない(意味こそが言語の複雑さを説明する鍵だと思う)。意味の 発生と普及こそが問われるべきだ。
1250436623 形式意味論は量化が基礎になっているが、これは英語にはうまく適用できても日本語には出来ない。タルミーが指摘し ているが、言語によってどんなカテゴリーが統語的に埋め込まれるかは分からない、英語では単数/複数の違いが形態によって表わされているが、日本語ではそ うではない。形式意味論が依拠している可能世界意味論は内包を外延によって定義しているが、これは量化にとって都合がよい。赤い性質は赤いものの集合に よって定義される。しかし日本語では量化を基礎に置くのは厳しい。だからといって日本語は特別ではない(例えば主語の省略だって他の言語にも見られる現象 だ)。おそらく必要なのは定義を逆にすること。つまり外延を内包によって定義する道を探ること。これが出来れば、出発点が外延か内包かの違いだけで、全く 同じ論理が成立する。重要なことは、言語によってどんなカテゴリーなりパラメータなりがありうるのかを特定の言語に偏らせないで考えることだ。もしかした ら存在論の議論はそのためにも必要なのかもしれない。
1250348060 「硫黄島からの手紙」を見た。こういう作品を日本人の手で作れなかったことを恥じるべきだ。ゴミのような精神主義 的な戦争映画しか作れない日本になど何の希望もない。合理主義を否定し自己満足に走る現代の日本の傾向は戦中とそっくりだ。滅びの美学を実践しようとして みじめに生き残る兵士は、決断主義とか言ってる自意識過剰の馬鹿とそっくり重なる。栗林中尉のような本物のエリートは今の日本にいるのか?
1250261607 意味とは死んだ比喩である、つまり通常の意味と比喩的意味の区別は最終的にはつかないのであり、この点ではディ ヴィドソンが正しい。しかし現実には、通常の意味と比喩的意味の区別を慣習的につけているとも言えるので、その点では比喩を含意として理解するグライスも 間違っているとは言えない。哲学的には極端な説の方が議論の点で生産的だが、実際には中間的な立場の方が正しい。極端な説を正否だけで判断すべきではな い。
1250261581 例えば、相手の立ち振る舞いだけを見て信用できる人だと確信して後はその人が何を言おうとそのままうなづいている だけで承諾したことにしてしまう、みたいのだって(日本的な?)コミュニケーションだ。しかし、既に相手の言葉は何も聞いていなくてうなづいているだけ だったら、こんなのを例に出されても言葉への理解が深まるわけでもない。言葉が身体的な振る舞いと共に行なわれることは当たり前であってそれ自体が問題で はない。
1250177465 日本にいる私たちの犯しやすい大きな間違いは反抗すべき敵を勘違いすることである。西洋で設定された敵と戦うのも 西洋そのものを敵とするのも勘違いだ。相手を端的に敵と見なすことは相手に対して盲目となることと同じである。相手の土俵の上で戦うことを当たり前だと 思っていては相手の思う壺だが、だからといって、相手の枠組みから外に出ようとする試みは、それ自体が相手の枠組みに拘束されていることしか意味しない。 たまたま目に付いた敵を敵だと思ってはいけない。日本で良く見かける通俗的な哲学批判や科学批判のひどいことったらない。そもそもに日本に根付いていない ことを一所懸命に批判している人は私からするとむなしい。反抗すべきものは自らの目で見つけろ

1250177403 ハイデガーに対するアレント、アドルノに対するベンヤミン、という関係は似ている。神秘性や否定性が強調される哲 学に対して、一歩手前に留まる思想という感じがする。ドゥルーズは肯定的なものを持ち出しているように見えるが、基本となる論証はハイデガーに近い。否定 なり矛盾なりによって生じた(消極的な)穴を(肯定的な)存在や強度で埋めているだけだ。しかし、アレントやベンヤミンはあくまで境界にとどまるのであ り、だから哲学というより思想に近くなる
1250093253 哲学的な説を好き嫌いだけで判断する学者が日本では(表向きには)目立つのでうんざりする。そりゃ、最終的には哲 学的な説を好き嫌いで選ぶのは勝手だけど、それ以前に何の論証もなしに好き嫌いだけで説を選んでああだこうだいってる奴って馬鹿らしい。哲学はその思考過 程に価値があるのであって、個々の説を単独で好き嫌いしても何の意味もない。観念論だからダメとか唯物論だからいいとか、そういう下らん評価法はどうでも いい。出発点が好き嫌いではいけない訳ではないが、その先はきっちりと(他の様々な説を含めて)検証してくれないとしょうがない。哲学は(確実な)世界観 を与えてくれる宗教じゃないっつぅの
1250092953 ドゥルージアンは生命の哲学者と化すことが多いのだけれど、それならば社会生物学やエボデボをどう扱うつもりなの だろうか。ドゥルージアンはたいてい科学に疎いオカルティスなのでそういう検証をできない。私はドゥルーズの問題意識には共感できるところもあるけれど、 議論する上で使うのはする気になれない。私は(隠れ)アルチュセール好きだからフランス現代思想に反感を持っているわけでもないのだが、ドゥルーズは芸術 好き以上には見えない(科学の話なんかしなきゃいいのに…)。概念以前に遡ろうとする感覚自体は嫌いじゃないんだけどねぇ
1249571140 発話内行為が問題になりにくいのはそれが発話行為と同時に行なわれる慣習的で自明な行為だからだ。実際の場面で言 葉を発したときに発話内行為は自動的に行なわれる。発話内行為とは話者の意図ではないはずだ(それじゃグライスだ)。疑問文を発したときにそれが質問か修 辞疑問かはどのように分かるのか。ある文脈では慣習的に修辞疑問であると言うことも可能かもしれないが、すべての文脈で慣習的に定められると考えるのは困 難そうだ。発話者の側がこれは修辞疑問だと思って言うことはありうるが、それは発話内行為ではない。発話内行為は慣習的に定まるのに対して、発話媒介行為 は実際の場面で起こる。グライスの話者意図は批判対象にされることがあるが、オースティンの発話内行為は慣習的という概念があいまいだ。
1249058017 土屋俊氏は「文の意味論が成立するためのいくつかの前提について」(→http://www.wakate- forum.org/data/2003/resume3.php)の第二節の後半でパラメータ云々と言及しているのは状況意味論を思わせるが、状況「意 味論」だけでは意味論への反論としては弱い。断片的な言葉に関しては、学生時代にヴィゴツキー大好き先生からよく聞かされていたが、これは当時から疑問 だった。言葉の持つ構造的な複雑性を説明すべきなのであって、そこから外れた例を持ち出しても複雑さへの説明には何の寄与もない(他の動物と比較せよ)。 疑問文や命令文の存在が持ち出される場合もあるが、真理条件との関係を問えばよいのであって、真理条件への批判としては弱い。言葉の意味を確定する上で、 言葉の不完全性や文脈依存性は当たり前であって、それを指摘するだけでは何の前進もない。もちろん言葉を使わないコミュニケーションが存在することは反論 にならない(これも他の動物と比較せよ)。文は言語的単位として分析上で便利なのであって(文と同じぐらい意義のある単位である)句や談話がどうでもいい 訳でもない(例えば照応の研究は一文だけで出来るわけでもない)。重要なのはおそらく土屋俊氏が非言語的知識と呼ぶものだが、これを読むだけではこれがど んなものなのかさっぱり分からない。しかし、「言語と呼ばれる道具がどのような機能を備えるべきであるか」という問いは確かに重要性である。
1249057973 トンデモブロガーに限って情報源としては便利だったりするが、これは多読な人が基礎理解に欠けた領域で勘違いを平 気でしてしまうのと似ている。つまり、そこに共通するのは節操のなさ。すべての領域に精通している人などこの世に存在しない。どんなに賢い人でも得意な領 域とそうでない領域がある。せめて得意な領域が周辺の領域とつながっているかどうかの違いがあるだけだ。得意な領域がない万能人など私は信用しない(実際 にそう謳っている人のひどいこと)。今はルネサンスのように未開拓の領域がたくさんある時代ではない。専門馬鹿よりも総合馬鹿の方が害が大きい
1248276537 日本(特にネットで目立つ)の困ったところは、人は間違うものだという考え方が本当の意味で浸透していないこと だ。他人が間違っているのをいちいち揶揄するから、間違いが指摘されて修正されるという必要な過程が働かない。正しい意見を言うことを他人に強制するから 修正の過程がうまく働かなくなる。間違いも表に出て指摘されなければ保存されてしまう。議論を議論として切り離すことが出来ないから、間違いを指摘された 側も意固地になってしまう。ネットに間違った意見が出てはいけないのではなく(そんなの不可能だ)、間違いや誤解が修正される過程が働くことが大切だ。
1248276483 私は分析哲学も認知科学も分かる数理的論理的な人間ではあるけれど、実は弁証法もそれなりに理解できる。ヘーゲル の小論理学は私の好きな本だ。ヘーゲル-マルクス的な弁証法は、まともに論理が分かる人には毛嫌いされるし、非論理的な人には単なるレトリックにされてし まう。ヘーゲル的な弁証法とは意識や論理の生成過程そのものを問題にしており、マルクスの場合は資本主義や社会化された意識の生成過程が問題になる。これ が理解できずにカント側とヘーゲル側に分かれてしまう(で互いに理解できない)のだが、パースは数少ない両者を理解できる例外だ。分析哲学に受け継がれた カントと現代思想に受け継がれたヘーゲルは今でも現代哲学の基本軸となっている。
1247929577 ネグリやガダリにはどうもアナーキズム志向があるのだけれど、古典的なマルクス主義が問題だらけになってしまった 今、左翼がアナーキズム化するのは自然なことかもしれない。アナーキズムは政治思想の本を読んでも必ずしもたいしたことが書いてあるわけではないが、ア ナーキズムとはもともと社会主義である。社会主義が国家社会主義に代表されてしまうのは20世紀に入ってからで、それ以前は多様だった。しかし、アナーキ ズムとリバタリアンは自由思想の点で一致しているが、自然生成や自生的秩序を理想化していて、その後は都合のいい楽観主義な思想って感じも拭いきれない。 そもそも政治思想ってのはどれもそんなもの(単なる信条)かもしれないが…
1247750806 「isbn:4022575654」5章に同時代のサイバネティクスと分子生物学の対比が描かれている。シュレジ ンガー「生命とは何か」を好む学者はサイバネティクスに興味が持てないと。これはソフトウェアとハードウェアの対比とそっくり重なる。ちなみに私の頭はソ フトウェアの側に偏っていて、物質的な還元主義が苦手だ。それから、精神保健とマルクス主義のイデオロギー的対立も描かれていて、サイバネティクスが保守 的な精神保健の側とされていた。それから家族療法はベイトソン経由だと今更ながら知った
1247668883 アナーキー社会主義とリベラル保守主義とはリバタリアン(自由至上主義)の点では一致しているが、政治思想として はかなり異なるようだ。しかし自生的秩序に対して楽観的な点は似ている。特にアナーキズムなんて、きちんとした政治思想なのか生き方としての信条の表明な のかよく分からなくなる
1247668874 精神療法について「理論家は実践家が昨日やっていたことに関する自分の理論を構築することしかできない。明日になったら実践家は、その理論ゆえに何か違うことをやっているだろう」Ruesch and Batson"communication"
1247494120 禅問答というのは本来はテキストとして読まれるものではないし、実際に長い間に門外不出だった。禅問答はテキスト それだけで読むと突飛さが目立つが、それに囚われてはいけない。禅問答はそれを理解した人物に実行されてこそ価値を持つのであり、禅問答だけをいくら読ん でも何も出てこない。当の禅問答の中に、表面的な言動のまねっこを戒めるところさえある。禅問答にとって重要なのは枠からの自由であるが、(意識された) 枠を超えることが自己目的化した馬鹿にはこれが分からない。ちなみに禅問答はまだ秘教でさえない(本物の秘教は別だ)
1247414782 http://www.miyadai.com/index.php?itemid=760←エコロジーや生物多 様性は昨日今日始まった問題じゃないって話は置いといて、私にとってもそもそもの謎は、こんなにも環境に負担を与える能力を持った生物である人間がどのよ うに進化的に発生したかということだ。生態環境によって適度に淘汰される方が自然な感じだが、人間は明らかに逆だ。
1247414764 某錯乱野郎は自分でまともな文章をろくに書けない(書く気もない)から他人に無茶な批判するんだよね(文句あるな ら断片以上のものを自分で書いてみろよ)。だいたいこの人は言葉の転用を一切許さないが、世の中には言葉の転用などありふれている。日常概念大好きは専門 概念大好きと同じで(任意の概念にこだわる点で)同じ穴の狢。概念使用に関して他人に規範を求める点では(どうも好みらしい)ウィトゲンシュタインの足元 にさえいない。日常概念の転用への批判は擬似的な哲学問題を解消するためであって、他人に(日常概念を含めて)概念使用の方法を押し付けたら論理実証主義 と同じ罠にはまっている。
1247323116 クオリアが概念によって知られえないものを意味するのに対して、トロープは知られえるものが生じるそもそもの源を意味する。クオリアが知覚と感情を含むのに対して、トロープは知覚と世界を含んでいる。
1247241062
進化心理学もブーム時はイデオロギストでいっぱいだったが(んなこと実証できてねぇよってのが多かった) この人たちは科学的な分だけ反論もしやすいのでまだまともだ。でも、経済学はせいぜい日本ローカルのブームではあったけど、ブーム当時の彼らはイデオロギ ストぶりを発揮していたのだけど、どこまで科学的なのか分かりにくい上に、反論を受け付けない印象が強かった。私はゲーム理論などの数理理論も知っている し統計的な検証も知らなくはないのだが、それでも当時のネオリベ気味な経済学論者には引き引きだった。均衡理論は興味深いけど、現実には制約条件ってもの があって、きれいな均衡にはたどり着かない。例えば、失職した人が需要のある任意の職業につけるわけないし(技量や年齢などの条件がある)、需要のある職 業だからといってその職につく人が増えるわけでもない(職業訓練とか情報問題とか)。経済回復しさえすればいいって、マクロをミクロから分ける傾向もあっ たけど、ミクロとマクロが無関係なわけがない(ミクロとマクロの分離は研究上の問題じゃないのか?)。日本には心理学の科学性を疑う人が未だにいるが(認 識のレベルが古い)、経済学はもっと怪しいんじゃないのか(でも某アルファブロガー経済学者みたいな適当発言も困るが)
1247152712 西田幾多郎は初期(善の研究)や晩年(宗教論)ばかりがむやみやたらに好まれるが、哲学的に重要な場所や行為的直観についてもっと語られないのは変だ。戸坂潤は「日本イデオロギー」で西田哲学の要所は無の論理にこそあるといっているが、まさにその通りだと思う
1246978361 行為論と心の哲学のつながりはありそうであまり見つからない。個々の学者でむすびつけている人はいなくもないが、 一般的な議論としてはあまり目にしない。はっきり言って、私には行為論は(意義からして)いまいち良く分からない(そもそもにおいて倫理学そのものが苦手 だが)。
1246978345 Twitterにはどうもあの錯乱野郎が(違う名前で)いる気配がある。(知ったかぶりも含めて相手によって態度を変える日和見だから)あの人の苦手なんだよね。(フォローしてくれている人たちにはすまないけど)ますますあそこには何も書きたくなくなってくる。
1246896258 萌えや決断主義を意識した(つまり再帰的な)作品―アニメやドラマ―はたいていつまらない。それを作らざるを得なかったという必然性において作られた作品こそが内なる力を持つ。悪いけど萌えや決断主義に媚びた作品はもうたくさんだ。
1246808992
実務に論理はいらないってなんて奴がいるが、これじゃ馬鹿上司へのまっしぐらだ。もちろん理詰めで物を考 えても切がないところがあるが、だからといって論理がいらないとはならない。論理思考ゼロの上司がその場その場で自分に都合のいいことばっかり言っていた ら、言明が平気で矛盾することになって、そのとばっちりは現場の人間が受けることになる。適切な時間内で現実をすべて計算することが出来ないからって論理 がいらないことにはならない。必要最小限の論理は必要だし、それは現場のフィードバックと共に必要だ。システム思考の本でも読んで勉強してください(これ はビジネスだけでなく日本全般の問題な気もするが…)
1246642323 別の見方や考え方もあるかもしれないという想像力を働かせるまでもなく、自分に都合よく物事を見ることしかしない 人にうんざり。偏見から完全に解放されている人なんていやしないにしても、自分の気に入らない別の可能性だってありうることぐらい想定するように努力すべ きじゃないのか。
1246456620 スピノザやニーチェが本物の一元論であるのに比べると、ハイデガーやドゥルーズは見せ掛けだけの偽一元論に思えてしまう。もちろん何元論であろうとその哲学の価値には変わりはないが
1246113152 宗教や経済の現状を理由に一神教はダメだ、多神教的な日本こそが…といった議論を日本では見ることがあるが、これ は現実を見ない無知なやからの口車でしかない。一神教の擁護は脇に置くとしても、多神教的なものだって今の日本を見ても分かるように良いことばかりではな い。多神教的とは自然のお恵みに依存することなので、自然の恵みがあるうちは寛容であるかのようにも見えるが、自然の恵み(とされるもの)が失われると他 人が餓死しようが自殺しようが放っておけということになる。昔だったら共同体的なものがその欠点を補っていたのだが、今はその力は失われてしまった。多神 教的世界では平和なときには共同体的なものに拘束されて邪魔くさく感じることになるのだが、だからといって共同体的なものが壊れてしまってはいざというと きに今の日本のようになるしかない。責任を無闇に(自分とは無関連な)他者に転嫁するような糞の役にも立たない下らないことは早くやめてほしいと思う。
1246111442 ソシュールの記号学とパースの記号論をごっちゃにしないでほしい、とパース派の私はつくづく思う。これらを混同し ている時点でパースを理解していないのがありありと分かる。ウンベルト・エーコはそこの違いを良く理解しているのになぁ。基本的にソシュール記号学は言語 を規範に置いているが、パース記号論はそうではない
1245941393 日本では物語としてではない歴史はさっぱり省みられないが、それ自体が歴史的な経緯を考えると仕方がない気もす る。まず明治維新によって近世の歴史が暗黒として葬り去られた。まあこれくらいなら西洋でも中性の暗黒観があったのでしょうがない気もする。しかし、さら に敗戦後に戦前の歴史が暗黒として捻じ曲げられた。戦後の民主主義そのものが日本の過去の歴史を葬り去ることによって成り立っているのでどうしようもない (サブカルチャー化とはそういうことだ)。虚構と現実は分けるべきだと思うが、それでも良質の歴史小説があったうちはまだマシな方で、いまは完全に歴史そ のものが虚構化してしまった。その結果が現状への埋没で、それを埋め合わせる近代的なリソースさえろくにない。脱構築とかいってる奴が平気で歴史に関心が ないという倒錯もあるし(脱構築とは具体的な文脈でこそ意義を持つのでは…)。過去を省みない奴こそが過去に拘束され呪縛されるのだ。
1245916482 日本にはデザインや経営などに関する万能の知識を求める人たちがいるが、これは不老不死の薬や卑金属を黄金に変え る賢者の石を求める試みと同じで、徒労に終わることが約束されている。いくらギブソンを読んでもデザインの万能理論など手に入らない。ギブソンの理論は呪 術ではない。知識や実践の持つ意義をよく分かっていない馬鹿が、自らの欲望を投影させているに過ぎない。呪術に心理的な効果があることは認めるが、あまり 本気で求められると馬鹿としか思えない。ユングではないが、賢者の石は外部にではなく内部にこそ求めるべきなのだ。内部が浅ければそれに対応して見られる 外部も浅いものでしかない。
1245766836 理想的なシステム論の立場は、スコラ哲学のように世界の未確定性に開かれてそれをとり入れる努力をするが、神秘思 想のように神秘性を前面に押し出してそこに留まりはしない。本来のシステム論の立場は、ヘルメス主義のようにより大きな視点とより小さな視点を考慮に入れ る努力をするが、グノーシス主義のように現実世界を否定したり秘教的に真理をひた隠してのエリート主義に陥ったりはしない。本物のシステム論は機械論とも 神秘論とも異なる立場のはずだが、真の理解者はまだ少ない
1245766809 宮台流の世直し宗教についての資料→http://www.utp.or.jp/todai-club/2005/07/25/uuaoe5iiaue/。
1245679831 日本語のネットで調べると、ユダヤ思想は選民思想だ金持ちの思想だといったものばかりで、挙句の果てには悪の思想 だとか言うことになる。ねぇ、ユダヤ人差別って知ってる?差別されてたから金貸しのような職業に就かざるを得なかった歴史があるって知ってる?啓蒙主義時 代にユダヤ人のゲットーからの解放が行なわれたって知ってる?だいたい選民思想うんぬんだって無意味に強調されすぎ。ほんとに日本は歴史に疎い奴っばかり で困る。そういう馬鹿が言えるのも身近に都合よい差別対象がいないからだ。自分にはどうせ無関係だから好き勝手いっていいと思っている(中途半端に恵まれ た)馬鹿ばっかり。こうして本当の身近な差別は隠蔽されていく…
1245595368 私は基本的にグノーシス主義よりヘルメス主義を、神秘思想よりスコラ哲学を好む。知識の軽視を含意しがちな前者で はなく、科学を生きたものにする後者に可能性を感じる。無知なネオコンや怪しいスピリチュアリズムはある意味でグノーシス主義や神秘思想に源を感じるが、 たとえ好意的に受け取ってもそれらは(もともと密教的なので素人には)危険に感じる。しかし(本当は誤解だが)科学を外面的に受け取ることによる強い合理 主義への嫌悪も理解できないわけじゃない。オカルト的じゃないヘルメス主義への接近もありだと思う。科学であれ哲学であれ私が求めているのは(合理と神秘 との)中間的な地点だと思う(ちなみにスコラ哲学とヘルメス主義は思われているほど対立してないと思うが確信は持てない)
1245595303 某学者Iはどうしても好きになれない。そりゃあネット上の論争なんてどうでもいいと思うけど、昔ネットで平気でろ くでもない言動をした人にネットの論争はプロレスとかネットで立派でもリアルではダメとか言われたくない。はっきり言って言い訳にしか聞こえない。著作は 必ずしも悪くはないのだが、だからといってネット上でろくでもない言動をしても良いとでも?リアルで立派ならネットでろくでもなくても良いとでも?という か、リアルで立派な地位でネットでとんでもない人なんで日本には山のようにいそうだ(ただし匿名なので表向きは分からない。だが実名でネット上でとんでも ない言動をする奴はさらに始末に悪い)。こういう言い訳がましい奴こそがネットジャンキーくさい(というか過去の活動を考えるとそうとしか思えないし)。 ちょっと前にはネットのクソ騒ぎは著作の宣伝に格好だみたいに言ってたし、少しは改心したのかと思ったら全くそんなところはない。もう一生言い訳して ろ…ってつくづく思った(某錯乱野郎のお仲間であることに納得。まさに類は友を呼ぶ)
1245509277 ちなみに、デザイン関連で本当に呪術そのものにはまってしまった人が(ネット上に)いた。とうとう逝ってしまったか。物質的価値に囚われた人の行き着く先はそんなところだ。余計な犠牲者を増やすことなく迷わず成仏しますように!
1245509264 日本には科学万能主義だとかオカルトだとかで騒ぐ人たちがいるが、そういう奴らこそが(ヘルメス主義における自然 魔術と対立する)呪術の世界にはまっているようで、極端な合理主義と同じぐらい害悪だ。私が本当に嫌いなのは日本で実学にはまる奴らである。奴らは経営や デザインや教育などの実践領域に巣くうのだが、私にはその多くが表面的なお役立ちにはまり込んで抜け出せなくなっているようにしか思えない。奴らが科学的 理解に欠けているのはよくあることだが(悪く言ってるけどお前らが認知科学をどれだけ知ってるというんだよ、おい!)、それ以上に広い視点から物事を見る ことに欠けているのが一番嫌いだ。例えば、どんなに素晴らしい経営理論があろうと(実践可能性をとりあえず脇に置けば)その現実化が経済や社会の中に置か れるとどうなるのかをちっとも考慮に入れない点でうんざりする。教育やデザインに関しても同じだ。自分を実践領域の救世主に仕立て上げたいのかもしれない けど、その振る舞いこそがより広い視点からは害悪であることもありうることには一顧だにしない。実学馬鹿は呪術に囚われた人たちだ
1245421960 「isbn:9784344981218」を読んでいると、以前に自分がブログに書いてたことがあちこちに見られ るのでむずがゆくなる(私が宮台ブログにトラックバックしてた時期があったことを覚えてる人などほとんどいやしない)。宮台真司には宗教社会学に関する学 術的な本を本気で書いてほしいと期待しているのだが、書く気はあるのだろうか。柳田國男のテーマで書いてもらってもいいのだが、その場合はやはり歴史的な 記述になるのだろうか。しかし、宮台真司が挙げている国家動員の例、アメリカの宗教やフランスの階級、を考えると古代にまで遡るのは無理がある。遡り過ぎ る通史そのものに誇大という問題があるが、それ以前に他の例が近代以降の成立なのだからやはり無茶だ(いやドイツならエックハルトから?)。やはりここは せめて幕末から始めるのが妥当だろうか?。ただし、司馬史観を受け入れていたりなどの点で宮台真司に歴史への感覚が本当にあるのかはちょっと怪しいところ もある。ちなみに、私は日本の近世の経済史をブローデル的な視点から書かれた本を夢見ることがある(どこかの歴史家がやってくれないかな)。
1245334487 ちょこちょこ調べていて思うことは、ルネサンスの人文主義とロマン主義以降の人文主義が違うように、ルネサンスのオカルトと19世紀以降のオカルトも違うことだ。私たちは19世紀以降の概念で考えてしまうが、それはルネサンスにまで遡って当てはめることは出来ない
1245253543 ヘルメス主義はケプラーやボイルやニュートンを見れば分かるように、近代科学の形成に一定の役割を果たしてきたに もかかわらず、いつの間にか機械論的世界観に取って代わられた感がある(ヘルメス主義-万物照応=理神論…という引き算)。しかし、ゲーテなどのようにそ の伝統は地下で脈々と受け継がれている部分もある。ヘルメス主義は占星術や錬金術と関連していて単なるオカルトだと思われがちだが、私には科学を否定せず に生きたものにする鍵があるように思われる。ちなみに、スコラ哲学は当時の最近の科学であったアリストテレスを神学に取り入れた先進的な学問だったのだ が、後に(よくあるように)陳腐化した
1245163913 ライルの洞察の優れたところは、行為を傾向性という最も原初的な概念によってのみで語ったことである。これはパー スの言う習慣と同じであり、それ以上遡れない何かである。クリプキの言うように行為の説明は任意にどうにでもできうるものであり、いくら条件法を付け加え ようとも論理や数式で行為の決定や予測が出来るものではない(認知科学で説明できているのは低次の知覚運動レベルでしかない)。ライルの行動主義は有名だ が、心で何かが起こっているのかを一切想定するなという禁欲としてではなく、セラーズのように心とは行為に対して何かしらの形で推測や弁明することでしか ないというように、レベル分けして考えるのが妥当である。そして本当の困難はこの先にある。争点は(理由の論理空間や心の理論にも関わる)意識にあるのだ が、残念ながら最近の認知科学や哲学で問題になっている意識は抽象的な意識であり、社会の中で生きる人間が持つ具体的な意識とは関係がない。ヴィゴツキー が問題にしている意識とは後者のことなのだが…
1245077451 私は自分の興味から文献研究も理論研究も実践研究もどれも見ることがあるのだが、思うにみんな自分の領域に都合よ く主張しすぎることだ。そして、その主張はそれぞれ別の視点からは盲点を持っていることになる。実践的視点からは現実に反映されるのが大切なのだろうが、 だからこそ現状のお役立ち思想に拘束されているように見える。徹底して理論的に考えることは確かに重要だが、結局は現実離れすることはしょっちゅうでまぬ がれない。地味な文献研究は個人的には好意を持つし、もっと日本では(思想の流行ではなくて)きちんとした人文学が理解されるべきだとは思うが、しかし書 斎の安楽椅子派だと揶揄されてもしょうがないところはある。自分に都合よく物事を考えるのはよくあることでしかない
1244996074 某学者がある連載エッセイで、理由の論理空間に対して行為の論理空間を提案してたが、適当なこと言ってじゃねえよ ボケって本気で思った。行為の論理空間についての説明をろくにしていないのも馬鹿らしい(どうせ出来やしねぇだろうが)だが、そもそも行為の論理空間って なんだよ。理由の論理空間は「~なので」という論理によって成立する空間だが、行為に論理はあるのか、というかあってたまるか(クリプキでも読み返せ)。 その人はウィトゲンシュタイン・シンパだけど、本当にそういう人って「らしい」ことを適当に言うしか能がない(最低だ)。どうせ言うならライルに倣って行 為の傾性空間とでも言う方がマシだし、ここから議論を深めることだって出来る(論理と傾性の違いと関係についてとか)。日本にはたいした考えもなくもっと もらしい事を断片的に書き連ねるだけの奴(本人は大した事を言ったと思い込んでる)が多くて困る
1244904319 新プラトン主義はややこしい。教説もややこしいが、思想史的な影響関係こそがややこしい。古代においては、一方で グノーシス主義とつながりがあり、他方でアウグスティヌスに代表される教父哲学と関係している。中世哲学への影響もいろいろあるのだが、後期スコラ哲学へ はアリストテレス哲学を称して新プラトン主義が流入している。さらにルネサンスには(グノーシス主義とも関わりがある)ヘルメス主義が隆盛した。あまりに も影響が多様すぎて訳が分からなくなる。新プラトン主義…というより新プラトン主義的な思考法そのものに汎用性が高いのかもしれない
1244822299 日本語のネット圏を見てて思うことは、他の人は間違っている自分こそが正しい、といった口調で書かれていることが 多いことだ。それなりに説得的に批判されている場合もあるのだが、でもね、あなたからは間違っているように見えても誰だって自分の主張が間違っていると 思ってそう主張してる訳じゃないんだよ、と諭したくなる。でも、いくらこう言ってもそもそも他人の意見を検討する気がない人が相手では無駄なだけだが。
1244728596 シェリングの哲学は前期が新プラトン主義的な自然哲学で後期が実存主義的で、これは対立というよりも相補関係にあ ると考えた方がよい。ところで、シェリングの前後期を逆転させるとハイデガーの哲学に対応する。実存主義的な前期と否定神学的な言語哲学である後期とに。 ちなみに、このあたりに神智学と似た匂いを感じる

1244707371 もしかして進化心理学の基礎がなぜユニバーサリティ(人類の普遍性)なのかってところから説明しないといけないの か?これは人種差別などの問題もあるが、それ以上にそもそも個人差は心理学的にあまりうまく扱えないのが問題であり、進化がうんぬん以前の問題だからだ。 ユニバーサリティを基礎に置く長所は、認知科学の成果を最大限に生かせるとか野生時代との種レベルの一致を前提にすると論じやすいし何といっても生得経験 問題が「比較的に」扱いやすいなどがある。対して個人差はというと、ビックファイブモデルのような測っているのが意識だか行動だがよく分からないような性 格理論のように一斉質問紙調査の問題点が致命的(お願いだから、せめて質問紙は実験デザインの中に埋め込んで使ってください)だとか、現在の個人差と昔の 個人差を比較する手段がないがだからといって個人差の分散を今と昔で同じとするのは前提として問題がありすぎるとか、そもそもにおいて個人差は生得経験問 題が絡まりすぎているとか、問題点が多すぎる。心理学的研究レベルならまだしも、(精神医学を含む心理学レベルを前提に話をせざるを得ない)進化(究極要 因)レベルとなると(不確実を多重に積み重ねることになって)無理があるのでお願いだから勘弁してください、としか言いようがない(どうせナゼナゼ物語に 陥るのがオチだ)。はっきり言って一部の生物学系の人(特に進化系)は心理学を甘く見すぎだと思う。正直むかつく!
1244641036 実は最近、ルネサンスのヘルメス主義について調べているのだが、困ったことに重要な著作が手に入らない。そもそも 重要なルネサンス本の多くがちくま文庫で出ていたこと自体がすごいが、品切れか何かで手に入らなくなっている。いい加減に現代思想関連の本なんてどうでも いいから、まともな人文学書が手に入るようにしてくれ…とつくづく思う。
1244558493 ドゥルーズは良識と共通感覚を一緒にしているがこれは図式としては甘い。エリザベートとの手紙などから分かるよう にデカルトにおける良識と共通感覚は分けた方がいい。デカルトにおける良識はカントにおける悟性に当たるのであり、それに対してデカルトの共通感覚はカン トの判断力に近い。良識グループに対して共通感覚グループは補完関係にある。どうも典型的な近代思想との対抗関係が強いせいか、この辺りは甘くなりがちだ
1244449327 形而上学で問題になっている存在論的カテゴリーと社会科学で問題になっている社会的カテゴリーは同じくカテゴリー と言ってるからってごっちゃにしてもらっちゃ困る。もちろん科学や哲学で普遍を装っているカテゴリーが、実は社会的に構築されたものであるという可能性は ある。しかし、あれもこれも社会的に構築されたとする極端な構築主義は既に滅多打ちにされている。カテゴリーをどれも均一に単純な範疇として考えるのは大 きな勘違いである
1244385355 書き手は状況から事態を取り出して記述し、読み手は事態から状況を組み立てる。「彼は食べた」という事態に当ては まる状況は男が何かを食べている場面だろうが、どこでどんな男が何をどのように食べているかなどの情報は含まれていない。文脈による制約がなければ、後は 読み手が想像や推測で埋めるしかない。この時、状況への情報の(間違った)埋め方を暗黙のうちに指示できれば、それはミステリーのトリックとして使える… (以上は状況意味論または非フレーゲ論理を参照せよ)
1244299866 現代形而上学は大きく二つの方向に分かれる、つまり普遍問題と時空問題。メレオロジーがこの二つに方向に分かれる ことは以前に述べたが、これは他にも当てはまる。有名な哲学者では、Michael J. Louxが普遍問題寄りなのに対して、Peter Van Inwagen は時空問題寄りだ
1244212739 柄谷行人が「差異が超越化される」という言い方をしていたが、これって現代思想っぽい議論のほとんどに当てはまり そうだ。例えば、代わりに「単独性が超越化される」って言い換えてもいい。いかなる一般概念からもカテゴリーからも可能性からも逃れられる概念を理想化す るという方法は陳腐なのでやめた方がいいと思う(ちなみに強い文脈主義によよる批判だと学問や科学そのものが否定されるというものすごい帰結さえ導けるの で覚悟して語るがいい)。というか、いい加減に疎外論的な思考法には慣れてしまったので、そういうのを見るとまたか!としか思わない
1244126595 日本語で神秘思想っぽいサイトを調べると、どうも怪しいページが多い。神秘思想そのものが怪しいと言っているん じゃなく、なんか反近代や反科学を含意していたり(面倒だな)西洋文明に対する基礎知識に欠けていたり(馬鹿だな)とか本当に嫌になる。やっぱり日本では 単なる逃避としてしか機能していないことにうんざりする(人文的な思想全般にも言そうなことは公然の秘密)。でもここはすごい →http://homepage2.nifty.com/Mithra/index.html。キリスト教や中世哲学について学んでいると、イスラム (東方)の重要性に気づかされるが、それを調べても西洋的なフィルターが強い印象が拭えない。このサイトは多少の妄想の気も無きにしも非ずだが、全般的に は素晴らしすぎて頭が上がらない。ちなみに、計算機言語学やった人って(あの人とかも考えると)こんな風になりやすいのか?
1244047497 音楽評論家の黒田恭一が亡くなったらしい。ショックだ。クラシック評論の良心みたいな人だったのに。これだけの鑑賞力の高い人物が亡くなってしまったなんてひどすぎる
1244012808
知覚の表象説を攻撃する哲学者というのよくいてそれは理解できるのだが、その挙句に知覚の科学的探究まで 否定されるとそれはやりすぎだろと思う。知覚の科学で表象説を採るのは方法論的な問題であって、それを実体化して攻撃してもむなしいところがある。表象を 用いるのは客観化のためであって勘違いしてはならない。というか、哲学と科学を混同するタイプの勘違いはあまりに多く見かけるので困ってしまう
1243952895 日本にはどうも哲学に過大な(肯定も否定も含む)期待と評価をする人がいて、そういう人に限って哲学なんてたいし て理解していない。私からすると哲学なんて一部の物好きが興味を持てばそれで十分と思っているが、どうも左翼系の人たちの過剰な期待と現代思想のアジに乗 せられた奴らが下らんことで騒ぐ。だいたい哲学の素養や理解のない奴に限って反形而上学などのスローガンでギャーギャーうるさい。日本では(明示化され た)形而上学なんてもともとマイナーで影響力ないんだからどうでもいいじゃん。そういえば反形而上学で騒いでたどっかの誰かさんはデリダさえよく分かって いないのに驚いた(私が思っていた以上の無知だったようだ)
1243869707 私の印象では、カントのいう判断力は生得的なもので後天的に得られるものではない。判断力は最も基礎となる能力な ので、その点ではカントはものすごいエリート主義者だということになる。要するに、論理などによる推理は教えられても、物事の本質を見抜く判断の力は生ま れつきの能力で教えられないと。ぶっちゃけると、物事の本質を理解できない奴は所詮いくら教えようとも無駄だと
1243820161 『自分の将来が見えてしまえばしまうほど、人は謎に興味を引かれてしまうものだ。謎には娯楽としての価値があるの は間違いない。しかし、人間は自分が安全であることを確認するためにも、自分にとって脅威になるものが必要である。謎を解明する過程で、わたしたちは説明 のつかない状況をじっくり考える。しかし、注意を向けているのは日常生活とはまったく無関係な脅威や出来事である。心に脅威を感じながら、実際には自分に 災いは降りかからないのである。おそらくそれが、ヨーロッパの都市部や北アメリカで、物質的・精神的にはもっとも恵まれているが、秘密結社に対して不安を 覚える人間が集中している理由だろう。』[isbn:9784072539422のp.242より引用]
1243776801 私は佐藤亜紀の悪口(日本の文芸評論家って無能じゃん)が正しいと思っている人間なのでネット上の文学好きの皆さ んと話が合うかどうか自信がない。猫猫先生の言ってことには賛同できるところ(私も古典的教養主義者に近い)もあるけれど、いかんせん猫猫先生があまりに 自然主義好みなせいで私とは文学趣味がかなり違っていて(鑑賞力の高さは認めるけれど)説得されないところも多い。趣味の違いと鑑賞力の高さとは別物だと 思うし、ラノベだから駄目みたいには思わない(木原音瀬はもっと広く評価されるべきだ)
1243574534 私はそもそもにおいて日本のビジネス幻想・投資幻想・起業幻想に対して冷たい。そういった事への志向がいらないと 言っているのではなく、過大に期待や評価がされすぎだと思っている。みんなが成功者になれるわけでもないし、アメリカの状況を理想化しすぎなところも未だ にある。いくらネオリベ批判なんかしてたってそうしたビジネス幻想を振りまいている限り、ネオリベ志向に伴っていた社会的なものへの軽視の(影の)共犯者 でしかない。どうも日本では様々な意見や活動の間に生ずる矛盾や葛藤に目を背ける傾向が強い。単に正しいと思う意見を言うだけじゃ駄目じゃん
1243497402 弁舌で人を惑わす現代日本の悪しきソフィスト候補:茂木健一郎、福岡伸一、内田樹、池田信夫。知的っぽそうに見え て人気なようだがいい加減なところが多い(教養人ぶってるけどその点も大した事ない)。だが、まともそうな所もたまに混じっているのが厄介なところ。他人 の批判(専門家から含む)を受け入れないところもそっくり。求めている人も多いので、こういう中途半端なペテン師はたぶん現代日本からいなくはならない。 弾さんや勝間さんは(社会人なせいか)ここまでひどくはないけど期待されすぎじゃないかとは思う
1243434157 http://www2.ttcn.ne.jp/~oda.makoto /daitaihukanousei.html。こういうのを読んで思うことは、何でもっと普通の言葉で語らずにいちいち哲学的用語を用いるのかよく分か らないことだ。社会学者や人類学者が哲学用語を転用することはよくあるけれど、たいていもともとの哲学的議論とは外れて用いられる(外れて用いられる典型 はクリプキ)。マルクス主義の影響かもしれないけど、無理に社会科学で哲学用語を用いる必要はないんじゃないかと思う。単独性だって、それって実は単独だ と思えるかどうかってだけの話で、単独性そのものがあったりなかったりするわけじゃないし。それから、ハイデガーの本来性/非本来性の対概念は批判されつ くされたと思っていたのは私の気のせいだろうか
1243350018 日本で、生成とかプロセスとか言ってれば何か言ってることになると思っている奴は、アフォーダンスやオートポイ エーシスなどのカタカナ用語にはまってる奴と同じで、付き合って得られるものがろくにない。だいたいそういう奴に限って哲学や思想や科学の歴史や伝統に無 知で、過去の数々の賢い人たちを単に乗り越えられると思っている傲慢でしかない。生成やプロセスをうまく表現できるなら、とっくの昔にどっかの賢人がやっ てるわい。ベイトソン「精神と自然」を読んで出直して来い!
1243348058 あのさぁ、論理実証主義者とハイデガーは互いに相手を(悪口の意味で)形而上学よばわりしてたんだよね。そこら辺 のとこ分かってるのかなぁ。極端なこと言うと、形而上学うんぬんは所詮は外国の話であり(形而上学について積極的に論じることと同じぐらい)敵対視して非 難することさえ事情の違う日本では空しい。私の場合は別の目的や問題意識があって形而上学に興味を持っているのであって、最終的にそれが正しいかどうかな どどうでもいいし、むしろ無目的に日本で形而上学(批判含む)の話をする奴に対して私自身は冷たい
1243269781 時々日本には哲学(たまに科学も)を勘違いする人がいて、偉大な大学者の大著作に埋没することで他の人が得られな い深遠な思想にたどり着くと思っているのだが、それじゃ修行によって悟りに達する宗教のようじゃないか。もちろん哲学を神学や教義や秘儀と厳密に区別する ことは歴史的に考えても無理があるのだが、それにしてもこれほどあからさまに哲学の宗教化がされてしまうのを見るとあきれてしまう
1243174645 時々勘違いする人がいるけど、分析哲学も現代思想と同じで基本的な展開のほとんどは20世紀の内に終わってしまっ ている。日本では現代思想ばかりで騒がれていたから分析哲学が目新しく見えるだけだ。困ったことにその終わった話でさえ日本ではろくに知られていない。分 析哲学も現代思想もめぼしい有名論者は亡くなっているか年老いているかであることに変わりない。だからといって、古くなったから価値がないと思うのは時流 に流されるしか能がない馬鹿の考えだが
1243136273 あずまんの言う柄谷行人は二次創作だという意見は案外正しい。確かに柄谷行人の哲学理解は偏っていてかなりおかし いのだが、そういうことは柄谷行人の批評の面白さを損なうものではない。その点は二次創作だと割り切ってしまう方がいいところもある。しかしあずまんが見 逃しているところは、柄谷行人はあくまで真面目であるという事である。単に面白がってやっているわけではないし、本人は適当なことを語っているつもりはな いはずだ。少なくとも若手の評論家気取りの馬鹿と一緒にはしてほしくない
1243054387 日本の学者というか知識人はいざというときに頼りにならないことが多い。あのろくでもないクオリア論がはやった時 分にそれに反抗した日本の哲学研究者を私は知らない(今だっているか怪しい)。ニートや勝ち組がはやっていた時にも社会的および経済的な再生産について述 べていたマルクス主義関連の人を私はろくに知らない(一体いままで何を勉強してきたんだ!)。お勉強ばかりは一所懸命みたいだけど、いざという時に応用が 利かないんじゃ、それって何の意味もないんじゃないのか?
1243003671 地平(パースペクティブ)を持ち出す解釈学と物質性を持ち出す脱構築は互いに噛み合う二つの歯車だ。物質的な記号 が様々な地平のもとへと引用される。しかし、この二つの考え方をバランスをとって展開している人はめったいない。解釈学と脱構築の中間辺りに文脈主義があ ると考えてもいいが、これもラジカルな語用論によって極端に陥りがち。この辺りについてはもっと真剣に考える必要がある
1242923961 認知科学に関しては、これまでは日本で流通している情報や見解があまりに偏っていた(某心理学者が茂木っちを褒め てたとかあまりに偏った進化心理学理解とか)、そういう状態への危機意識からブログを書いてたところがある。でも最近はやる気がなくて、もう他の人たちに 何とかしてがんばってほしいというところはある。自分ばかりが良心的に振舞って努力しているのもいい加減に馬鹿らしいし、他人から期待されるほど私は認知 科学に詳しいわけでもない(日本ではあまりにひどい人たちが目立っていたから良く見えただけ)。私なんか踏み台にして、理解や議論のレベルをさっさと上げ ちゃってほしいと思う
1242917405 私が宮台真司をフォローしてたのは、少なくとも小泉旋風の真っ只中では他にましな選択肢がないという消極的理由 だった。私も右翼的転回の以前には魅了されていたが(確かにマッタリ革命は衝撃的だった)転回以後はよっぽどついていくのをやめようかと思った。ただ困っ たことに、あのろくでもない小泉旋風によってそうも言ってられなくなった。小泉旋風の真っ只中でろくでもない言動をした学者や知識人を私は名指しで挙げる ことが出来るし、正直(彼らが大人しくなった)今でも許せない。それに比べたら宮台真司の右翼的転回なんて,まだ許容範囲内であった。今でもましな選択肢 がないことに変わりがないが、あの熱狂が終わったあとではどうにも粗が目に付くようになってきた。
1242830440 何か勘違いされている気もするけど、経済学的な考察を一所懸命したからといって経済状況が良くなったりするわけで はない。インセンティブは説明概念としては良く出来てると思うけど、実際にインセンティブを与えられる確実な方法など存在しない(いまどき行動主義じゃあ るまいし…)。インセンティブが生じる経済的条件がありえるだけであって、インセンティブを外から左右できるかのような傲慢な話はどうでもいい(馬鹿 か?)。もちろんイノベーションだって経済的条件だけで生じるものではない。経済的な条件は重要だけれども、にも拘らず他にある様々な条件のうちのひとつ でしかない
1242798741 最良の読書術は悪書を読まないこと。昔読んだ教訓だけど今となっては納得。出来の悪い本に悩まされるよりも、出来 の良い本をしっかり読む方が得られるものが多い。ただし、悪書かどうかを判断できるためにはある程度の読書経験が必要なので話が循環。次点の読書術として は、自分の理解レベルよりも少し高めを選ぶ。全く訳の分からないものは無理して読んでても時間の無駄。個人的には初めての領域ではやさしい解説書を数冊読 むと視点の硬直を防げるのでお勧め(もちろん原典にも目を通すのが理想)
1242743043 多くのアメリカ人がローカルニュースしか知らないという非難をされることがあるが、これはあまり非難になっていな い。逆に遠い国の国際ニュースばかり知っていて評論家的意見を持っていることが偉いとは思えない。市民生活という点からするとローカルニュースの方がずっ と重要である。地方のほのぼのニュースばかりじゃ問題だが、もっと身近な問題を知って判断できることの方が重要だ(その点ではたとえ国内でも遠い地方の凶 悪犯罪とかだってどうでもいい)
1242575711 老荘思想から西洋思想に接近するもうひとつの方法はプロセス哲学を持ち出すことである。 http://www.iep.utm.edu/p/processp.htmを見るとプロセス哲学の代表として、ベルクソン、ウィリアム・ジェイムス、 C.S.パース、ホワイトヘッドなどが挙げられている。しかしこれらをすべて均一に扱うのではなく分類が可能である。生成過程を前面に押し出す前二者と科 学を概念化される以前の状態と共に認める後二者に分けることが出来る。ベルクソンやジェイムスは哲学の議論に科学の話題を持ち出してるだけだが、パースと ホワイトヘッドは当人が科学者だ(そのせいか前者は唯名論気味だが後者は実在論者だ)。前者は老子と荘子を一緒くたに扱う道家だとすれば、後者は老子と分 けられるところの荘子であると言える。もちろん私の好みは完全に後者だ。
1242575682 私はもともと老荘思想好きだが、昔から老子と荘子は違うと思っていた。西洋思想を知っていくうちに、どうも西洋思 想にも似た対比が成り立つような気がしてきた。つまり神秘思想とスコラ哲学。近代ではフッサールがスコラ哲学的でハイデガーが神秘思想的だ。なのでドゥ ルーズがスピノザとドゥンス・スコトゥスを同等に扱っていることには納得がいかない。(スピノザはまだしも)ドゥンス・スコトゥスが汎神論だったらそれは 異端でしょ?
1242541736 博士論文まで書いたのにサイエンスな女子院生がいて、素粒子がどうとか言っていて、私がバカにすると「かわいそう な人…。眼に見えるものしか信じられないのね」なんて言っていた。その後消息不明になって消えてしまったが、まあ妥当なところだろう。 (http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20090508のパロディー)
1242541690 ある病気で死にかけてネットさえ不可の日々。原因も分からないままで地獄の苦しみも味わった。まるでヨブ記の世界だ。しばらくはおとなしくしてるしかない
1241801392 同じくメレオロジーを用いていても、形式存在論の方面と空間表象の方面は別物なようだ。どちらも形而上学に分類さ れる上にどちらも知覚に関係しているのでややこしい。ちなみに、日本にはメレオロジーを三段論法や量化論理に用いる学者がいるが、そうすべき必然性がよく 分からない上に、そもそもメレオロジーには零元が存在しないのだからとてつもなく奇妙に感じる(「ソクラテスは死する」から「ソクラテスの髪の毛は死す る」と言えるとでも??)
1241801370 あぁみんなtwitterやってるからブログ更新がされないんだ、と納得(自分もブログの更新してないけど)。twitterってなんか日本的自我(?)みたいで私には何か馴染めない。ここも一応ミニブログだけど、自分はそういう使い方してないから意味ねぇ
1241794214 こ難しい本を大量に並べた教養本リストというのは日本ではよく見るけど、それって作成した本人に全く教養がないこ とがありありとうかがわれる。そんなに大量に読めないし読めたとしても理解できないしで、結局は教養を彼方にある理想として勝手に思い描いているだけだ。 確かに教養は数冊の本を読んで身に付けられるような代物ではないが、いくらなんでもどっかで聞いたことあるだけの(いかにも難解な)古典をズラズラ並べる だけって本気かよって思う
1241707649 どうも私には、最近のアメリカ中心(オーストラリア含む?)の存在論ってあまり面白いと思えなくて、イギリスとか イタリアとかポーランドのようなヨーロッパの存在論の方が面白く思える。幸いなことに分析哲学の論文は母国語でなくても英語で書かれることが多いので私に も読むことができる。アメリカとオーストラリアで20世紀後半に行なわれた(集合論による)モデル理論的な現代普遍論争はとりあえず区切りがついてしまっ ていて、今はモデル理論以前にさかのぼるような普遍論争になってると思う。多分それにアメリカ人はついていけてない気がする
1241626091 あー、日本の問題は何でも団塊世代のせいにする奴、はい!なんでも適当な悪役に責任転嫁する馬鹿です。でもそれっ て団塊世代が(年上の人に対して)若いころにやってたことと同じなんですけど…。他人の持ってる物を奪うことなんかじゃなくて、いい加減にもっと積極的な ことでも考えろよ、おい!
1241618405 試しにやってみたら、はてなスターとIDの間にあるフキダシからコメントを入れることが出来た。ただし誰でも出来 るのかなどは謎。本文は改行不可かと思ってたらそうでもなかったみたいだし、ヘルプに書いてない設定が他にもいろいろありそうで、未だにここ(はてなハイ ク)はよく分からない。私自身は好き勝手に書けるメモのつもりだからどうでもいいけど
1241597835 現代思想的な唯物論(materialism)と分析哲学的な物理主義(physicalism)とは似ても似つ かない代物だ。物理主義が自然科学に親和的なのに対して、マルクスやニーチェを受け継いだ唯物論はそうではない。唯物論は自然科学をも超えるものだ。どう もこの辺りはうまく指摘されない。自然科学をも超えるって辺りで神秘思想と相性が良くなるのだが。それが反科学を導くかは別の話。ベルクソンやウィリア ム・ジェイムスやドゥルーズが好きな人にオカルトに弱い人が多いのもこの辺りに関わりがありそう
1241597825 唯物論、汎神論、神秘思想。これらは共通してある種の人に好まれやすい。ハイデガーとかドゥルーズとか。だがドゥ ンス・スコトゥスやパースやホワイトヘッドがエウリゲナやスピノザのような汎神論と一緒に扱われるのは違和感がある。汎神論はエピクロス派のような唯物論 と相性がまだよいが、スコラ的実在論と一緒にするのは無茶。近代合理主義と対決したいのは分かるが、反科学が伴うのは迷惑
1241533943 ベンヤミンは神秘思想的な初期とアレゴリー思考の後期に分けることが出来る。初期のベンヤミンの神秘思想的な側面 は「ドイツ悲劇の根源」の認識批判的序章にも現れていて、ここでは物事の本質を見通すプラトニズムが賞賛されている。それに対して本文では、まず前半では 序章を前提にしてギリシア悲劇と近代悲劇との本質が比較によって示される。この辺りはニーチェの悲劇論と対比されていてまだ見通しが取れる。しかしアレゴ リーを検討する後半はどうにも分かりにくい。カバラ的神秘思想を思わせたりするところもあれ、どちらかというと神秘思想的なプラトニズムとは切り離した方 がよいところがある。たぶん寓話というよりも「視えるものを視えたと思い込む」の方がベンヤミンのアレゴリー概念に近いところにいる (http://www.miyadai.com/?itemid=734を参照)
1241533899 ベンヤミン「ドイツ悲劇の根源」はたまにパラパラと中身をめくってみるのだが、ベンヤミンのアレゴリー概念には不 可解な点がある。ベンヤミンによるアレゴリーのある説明を読むと、どうもマラルメの象徴主義(例えば音と色を結びつける)と似た特徴を挙げている。ベンヤ ミン自身、シンボル(象徴)の意味がバロック期とロマン主義期で違うと言ってはいるのだが、その違いは錯綜した記述により分かりにくい。後のボードレール 論などを考えると、アレゴリーとは物(商品)に異なる意味を読み込むことだと思うのだが、確信できない。少なくとも http://www.miyadai.com/?itemid=734での宮台真司のアレゴリー理解はおかしいと思う。
1241505089 臨床や教育やデザインのような実践領域では変に科学的であろうとするよりも、思い切って科学は参照するだけでいい んじゃないかと思う。もちろん医療的判断のように科学を避けられないときもあるが、実際には科学とは関係のない要素がたくさんあってそっちが大変。科学を 仰ぐでもなく退けるでもない態度が重要。そのために必要なの良き理解や良きコミュニケーションを得るための方法である。もっともらしいだけの大理論はあま り役に立たない
1241450725 教養を身に着けるなんてのは高貴な生活を送る貴族的人物だから可能だったのであって、大衆化した現代社会でそれを 求めても無理。年上で教養がある人はもともと高い階級の人。ちょっと前まではサラリーマンの教養は時代小説や歴史小説だったのだから、今さら突然に庶民が 本物の教養を身に着けようたって無理。だいたい今の日本で教養が重要だって騒ぐ論者に限って、お前のどこに教養があるんってだよ!単なる人気評論家め が…って奴ばかりだ。今の日本に必要なのは(前提の異なる)他人と対話や議論をする能力だと思う
1241407366 活動理論とヴィゴツキーやルリアとの関係は分かりにくい。活動理論が実践的なのに比べると、ヴィゴツキーやルリア はあまりに科学的に過ぎる。活動理論の源はレオンチェフこそがふさわしい。最近シュタイナー哲学の解説書を読んで思ったのは、活動理論はこうした神秘思 想=身体技法の伝統から来てるんじゃないかということだ。実際に活動理論が盛んなのはロシアやドイツや北欧だし。活動理論をヴィゴツキーと結びつける必然 性は(発想の源として以外には)実はそれほどないように思う
1241326468 日本で世間に対して教養の必要性を訴える論者に限って、お前のどこに教養があるねん?と突っ込みたくなる奴ばかり だ。だいたいそういう奴らは売文家なので、無知な読者に俺は教養持ってるんだぜ!と思わせたいのだろうが、実際にその人の言動を確かめてみても一体どこに 教養があるのかさっぱり分からなかったりする。本当に教養のある人ほど、俺には教養があるぞとばかりに他人に媚びたりはしない。教養とは語りや行ないの中 で示されるものであって、これこそがと誇示するものではない(それは雑学や博識との勘違いです)
1241326461 現代形而上学ではトロープ論は唯名論にされているが、哲学史的に考えるとこれは変だ。フッサールのモメントはト ロープと同じとされるが、フッサールが唯名論とは思えない。ドゥンス・スコトゥスを支持するパースが実在論者であることなどを考えると、過去においてはむ しろトロープと実在論との方が相性がよかったのだと思う。蘇れ!スコラ的実在論
1241195022 「動物心理学史」によると心理学が基礎研究と実用研究に引き裂かれるのは昔からあったことらしい。私は臨床に見切 りをつけて科学へと転換した人物なので、日本の下らん実学志向が嫌いだ。もともと私が表面的なお役立ち大嫌いの超越志向な人間のせいもあるが、客観的に見 ても日本の実学志向はかえって役立たずなことが多い(基礎から勉強し直せよ!)
1241107873 何となく現象学(形式存在論)とメレオロジー(全体部分関係)と状況意味論(非フレーゲ論理)との結びつきが分 かってきた気がする。現象としてのトロープに基づけ関係を見出すのだが、そこでのトロープと論理の関係が状況と事態の関係に似ている。ただし状況をトロー プとして捉えていいのかは不明
1241107838 日本は(独創性以前に)まともに分析哲学的な議論をできる人が少ない。ウィトゲンシュタイン・シンパのろくでもな さは置いとくにしても、それにしてもひどい議論が多い。例えば、定義の置き換え→「矛盾するので~は実在しない」を「~は矛盾から生じる」と言い換えてる だけ。任意のレベルの設定→ある議論に対して勝手に高次のレベルを持ち出して解決気取り。論理以前の問題だが、騙される奴も馬鹿だと感じる
1241107771 日本の分析哲学はお世辞にもレベルが高いとは言えないが、特に無理にオリジナルな仕事をしようとしてる人に限って 論が破綻してたりして悲惨だったりする。むしろ飯田隆や戸田山和久のような概論的な教科書を書いている人の方がかえってレベルが高い。論理学的にテクニカ ルな仕事を除けば所詮は欧米にかなわないのだから、変な色気は出さないほうがいいんじゃないか?
1241071482 ワルラスの限界革命の要所はシステム論的な相対性思考にあるのに注目されない。機械論的な均衡システムへと還元されるのがオチだ。日本はメタレベルに立とうとする(傲慢な)相対論は無闇矢鱈に発達しているが、こうしたシステム論的な相対論はさっぱり普及しない
1241071469 ハイデガー的な存在論的差異とソシュール的な差異の体系では言葉上は同じ差異でもぜんぜん違う。前者はメタレベルに関わるが、後者はそうではない。現代思想では両方の差異が使われるが、日本の論者はどうもあまりこの違いを明示してくれない
1240936213 もぎっちは弁舌で人を魅了する現代のソフィストだ(褒めてません)。そういう商売なんだと思えば別に構わないし、 需要があるのならそれはそれでしょうがない(そんな商売は今に始まったことではない)。ただ困るのは彼が科学を語っていると誤解されることだ。文系学者が 彼に騙されているのは何度も見ているが、この前も彼を科学者と勘違いしてた人がいた。一見まともなことを話しているからそう思えるかもしれないけど、もの すごい勘違いです。ちなみに(権威に頼る西洋かぶれな評論家と同じで)彼の芸術鑑賞力は低い
1240931583 グッドマンにおけるメレオロジーと唯名論、ピータ・サイモンズにおけるトロープとメレオロジー、とが関係している とやっと気づき始めた。好きに分解と合成を行なって個体を定めれば、確かに根本的な唯名論になる。現象学的にはトロープから性質を構成することができる。 ただしメレオロジーの用いられ方は学者によって様々で私にもまだよく整理できていない
1240821812 悪の一神教説を振りまく奴がいるけど、そういうのって本当に教養の欠片もないと思う。結局は近代の恩恵を被ってお きながら都合の悪い所だけ西洋のせいっていうのもらしいが、それ以前にお前らが西洋の何を知ってるって言うんだ?じゃあイスラム教は一神教だから悪か?日 本は環境に配慮した生活をしてるのか?西洋思想も東洋思想も大して知りもしない奴に限って下らん悪の投影を他人にする。その思考法こそが悪の原因だろ?
1240668810 非フレーゲ論理(ポーランド学派)って日本語では調べても情報がない。オントロジー(存在論)の日本語での情報は恵まれていないんだと改めて思う
1240668779 日常言語学派シンパなどが言語の記述理論をいかなる形でも否定しようとすることがあるが、これは極端。ウィトちゃ んは複数の解釈が可能なので置いとくとしても、オースティンは記述説を相対化はしていても否定はしていない。デリダもある言葉が記述に関連しているかは自 明ではないと言ってるだけ。言語はすべて記述であるべきみたいな論理実証主義は今時ありえないし、言語がいかなる形の記述とも関係がないというのは不自然
1240587119 ボークスisbn:4414302684。素晴らしい良書。心理学へのダーウィンの影響は限定つき。賢いハンス研 究は人間の無意識的動作をも見つけ出した。進化論の系譜(さらにモーガン系列とロマニス系列)と生理学の系譜に分けられるかな?詳細な記述は興味深いが、 盛りだくさん過ぎて感想がうまく書けない
1240559160 States of affairs(事態:Sachverhalt)は用法が一定しない。どうもsituations(状況:Sachlage)との区別が怪しいことが多 い。前期ウィトゲンシュタイン経由では区別が怪しいが、フッサール経由だと区別されるようだ。それ以外だと、少なくとも状況意味論では(おそらくポーラン ド学派でも)区別されているようだ

1240495243 分析哲学における存在論史。フレーゲ→ラッセル→カルナップの流れからその批判としてクワインやグッドマンによる 唯名論組とオースティンやストローソンの日常言語学派へと続き、さらにクリプキやデヴィッド・ルイスの可能世界論がアームストロングらによる現代普遍論争 へとつながる。ちなみに大陸哲学ではフッサール現象学とポーランド学派が重要
1240408806 いまどきの存在論は、パースの連続主義やホワイトヘッドのプロセス哲学の影響を受けているので生成云々の批判はそのままでは当てはまらない。存在論に対する生成みたいなスローガンによる批判を叫ぶのは(その非生産性も含めて)下らないのでやめてほしいと思う
1240328940 どうも日本では勉強法そのものを勉強されたりメタな理論を学んだりといったことが目立つ。これってもともとの目的 や理論が理解されている上ならば問題はないのだが、そうではなくてメタであること自体が目的化されている匂いがしてあまり効果はなさそうである。メタぶ りっ子は今の日本の時代精神そのものだ
1240328916 概念分析のあの人や構造構成主義の某氏を数年前から見ていて思ったことは、本人の中立気取りは実際に中立であるこ ととはまったく関係がないことだ。理論レベルの中立も怪しいけれど、それ以前に態度が不遜すぎて中立と思われることさえ程遠いことだ。おそらく中立気取り はメタぶりっ子と同じで今の日本の時代精神でしかない
1240328893 以前は構造構成主義なんて眉唾だったが(提唱者は研究者としてならまだしも……)でも看護での概念分析なるものが あることを知ってちょっと見方を変える気になった。実際に構造構成主義は看護で(だけ?)受け入れられてるみたいだし、そういう実践型なんだと思えば何と か認められなくもない(ただし??な言動や人物を考慮すると…)
1240242217 私は認知科学に目覚める前は教育社会学に夢中になっていたので実はそっち方面の話は強い。というか、私の認知科学 への接近は文化心理学を介しているし(西阪仰を絶賛していた)某ヴィゴツキー派の先生を尊敬してたこともある。でもね、認知科学の主流への批判に早計を感 じて身を離した。今は中立的な立場を保つようにしている(が所詮は完全な中立などありえない)
1240150076 存在論における(普遍問題以前の)実在論の不毛な論争が未だにあるのに気づいてがっくりしてしまった。しかも科学 哲学における実在論問題が参照されていないことにさらに驚き。何があるかを完璧に知ることができないのは前提じゃないのか?いい加減に(フッサール的な) 超越論を分析哲学者ももっと考慮してくれよ
1239978029 語りの技法が堪能できる幻想文学(私的候補)…セルバンテス「ドン・キホーテ」、ルイス・キャロル「不思議の国の アリス」、マーヴィン・ピーク「ゴーメンガースト」シリーズ、ジーン・ウルフ「新しい太陽の書」シリーズ、クロウリー「リトル・ビッグ」、プリースト「魔 法」。次点:ルルフォ「ペドロ・パラモ」、カルヴィーノ「宿命の交わる城」
1239978015 私の印象では、芸術や文学への鑑賞力が高い人ほどかえって科学を正しく受け入れられるが、鑑賞力の低い人ほど反形 而上学や生成のようなスローガンにはまりやすい。悪いけど、私にはそれは(西洋や教養などへの)コンプレックスにしか見えない。だいたい、そういうスロー ガンが生産的な議論につながった試しなどめったにない。もっともらしいだけで中身のない話にはもううんざりだ
1239977946 日本には言霊の呪縛に捕らえられた人があまりに目立つ。曖昧なカタカナ用語(例えばアフォーダンス)に酔ったり、 科学理論に抑圧を感じたり、そういうのを見かけやすい。市井の人がそうなら(害が少ないので)まだ許せるが、学者がそれだとどうしようもない。日本は言霊 に呪われた学者がいすぎる
1239810970 英語で概念分析を調べると看護でばかり出てくる。ある概説論文を読んでたら、看護の概念分析を理論の概念分析と会 話の概念分析に分けていた。前者は科学概念の分析を含むのだが、これなら(存在論/認識論の対とは異なる)存在論/意味論の対と重なる。穏やかな実在論へ の傾向がこんなところに見られた
1239810959 存在論は形而上学にあり、意味論は言語哲学にある。存在論は形而上学(メタ自然学)である限り科学理論に関連して いるのに対して、意味論は自然言語に関わっている。存在論と意味論を分離するのは根本的には無理だが、分けることには意義がある。意味論への文脈主義によ る懐疑は正しいと思うので、とりあえず分けないと非生産的で悲惨なことになる
1239807278 試しにtwitterに同一IDで登録してみたけど、やる気は全くない。日本語で使用できる機能も限られているよ うであまりメリットもない。つながりたい欲求も薄いしプライベートをさらす気もないので、ただ面倒臭そうなだけ。今のところ、どうせ人目につかないような メモを残すだけなのでここで十分
1239722115 科学的な研究というのは、一方で厳密さが必要だが、他方で創造性が必要。前者だけだと科学は貧弱になってしまうし、後者だけだと誤ったゴミだらけになってしまう。一般の科学のイメージは狭いので広げないといけない
1239722096 人文学って言うのは基本的に文献研究を言うのであって、現代思想はその一部分でしかない。日本の学者でこれを理解 していない人がいるのは困ったものだ。例えばエイブラハムズ「自然と超自然」はロマン主義に関するすばらしい文献だ。こういう著作があまり読まれていない 時点で、日本の人文学への認識の程度が知れる
1239695205 いまさらの科学万能主義批判の多くは検討するに値しない。科学で説明できないことがあるって批判はマヌケ。だいた いすべてを科学で説明されるのを望んでいるのか?すべて説明できてたら科学は衰退してるはずだろ?科学が万能じゃないのは当たり前じゃん。科学が万能だと 勘違いされると困るのはむしろ科学者の方だ
1239695107 アクターネットワーク理論はハッキングの介入実在論と同類で、観念的な社会構成主義とは異なるはずだが、この辺り はあまりうまく整理されていない。フーコー的な言説領域と身体領域との関係が未だに明確にされていないし、むしろ誤解されていることの方が多い。このタイ プの理論の最大の問題点は、言説領域とは別の身体領域も言葉で描くしかない循環である。研究者の分析も言説である。
1239641675 純粋な領域など確かに存在しないが、逆に境界なしに越境はありえない。ポリフォニーで有名なバフチンはこのことに 気づいている節がある。混交は境界なしには起こりえない。異なる階級間の交流は、分断された階級が成立しているからこそ生じる。純化も混交も共に必要であ り、それは一人の人間や一集団だけでできることではない
1239641653 日本では、有名な評論家よりもどっかの素人の方がよっぽど高い芸術鑑賞力を持っていたりする。私は一時期は勘違い していたが、ある時から日本の評論家の多くが嘘っぱちらしいと気がついた。下手な学者よりよっぽど学識のある素人も日本では見かける。その点ではやっぱり 日本はアイロニー大国であらざるをえない。日本では輸入された権威に頼る馬鹿な評論家や学者は絶えない
1239550939 専門化と学際化はともに必要である。きちんとした専門領域が成立していなければ学際的な交流には意義がない。ろく に知識もないくせに学際だって騒ぐ奴は馬鹿だ。学際とは分野間の交流のことであり、一人で複数の領域にかかわる領域横断とは別。領域横断は一部のカリスマ が偶然にできることであり、わざわざ目指すものではない(総合バカになるのがオチ)
1239550884 私が疑問に感じるタイプの学者。基礎的理解がないままにお役立ち研究に走る学者。特に経営学や教育学によく見られ る。一言で言わせてもらうと「科学を甘く見るな!」、自分に都合よく好き勝手に科学的な理論を解釈しているのを見るとうんざりする。本当はそれは間違って ますよと指摘したいが、余計なお世話じゃないかと気がとがめる
1239433206 私がオントロジー(存在論)を勉強したのはパースやハイデガーの影響であって認知科学は関係がない。認知科学での オントロジーはあとから知ったに過ぎない。もともとは中世哲学の普遍論争について知るのが目的だったのだが、認知科学にも応用できるとは私にとっては偶然 でしかない
1239433193 存在論を復興させたはずのハイデガーが現代思想を介して顕現せざるものの現象学へとつながり、逆に現象学の祖フッサールが現代形而上学におけるオントロジーの源として重視されている。この現状は皮肉に見える。私自身は生活世界派のつもりなので態度が微妙。
1239433159 宮台的な意味でのネオコン気取り(決断主義)にはうんざり。宮台的ネオコンとは、意味の恣意性を分かった上で「あえて」ある立場を選ぶのだが、そういう奴に限って想像力が貧しかったり自分の偏見を認めなかったりする。せめて宮台レベルの教養がないと話にならない
1239352954 日本で「~を超える」ってすぐ言う奴は頭悪そう。越えるべき何かに問題があるのなら構わないのだが、そういうわけ でもなくとにかく超えること自体が目的化されている場合があまりに多くて馬鹿らしい。外から与えられた枠組みに抑圧を感じるのだろうが、それってニュート ン力学を(観念的に)超えれば空を飛べるといっているのと同じようで気持ち悪い
1239352901 私が認知科学に魅かれた要因のひとつは科学的な説得力や生産性の点で最も納得がいくものだからだ。群小研究領域を あれがいいこれがいいと言っていても際限がなくて不毛。だからといって天下り式に勝手な万能理論を作り上げるのは誇大妄想。実証的生産性と理論的包括性を 満たしているのが魅力であり、それを満たせるなら認知科学そのものが消えても悔いはない
1239207797 文化を評価したり介入したりする学者って訳が分からん。文化なんて必要なら放っておいても勝手に生まれるし必要な くなれば勝手に衰える。グチャグチャ余計な口出すからろくなことにならないんじゃないか。文化評論家気取りそのものが日本では文化化してるって言うのは皮 肉でしかないと思う
1239203751 日本のネットでは井の中の蛙みたいな人をよく見かけるが、そういう人を見かけると気の毒でしょうがない。そういう 人に限って偉そうなんだけど、世の中にはあなたとは比べものにならないくらい賢い人がたくさんいるんだよ…と余計なことを言いたくなる。もちろん実際には 言えない
1239174266 どうも日本ではアメリカに対して過大な期待(オバマ救世主)か過剰な非難(ネオリべ許さん)かのどちらか極端に流 れやすい。どちらもアメリカに対する無知から来るものだ。アメリカに対してはもっと冷静な態度を採ったほうがいい。21世紀に入っておかしくなったのはア メリカも日本も同じ穴の狢
1239034102 ネオリベ現象の問題だった点は、社会的な視点が失われることであって、市場主義とか資本主義が直接に問題ではない。というか、他にどんな選択肢があるっていうんだ。(どのような?という考慮はあれど)資本主義と民主主義の組み合わせ以外に選択肢があるのか?
1239034082 いわゆるニューアカの人たちに教養があると思ったことはない。それは彼らの作った教養本リストを見れば分かる。彼らが表面的な権威(と世代的流行)だけで本を選んでいて、中身をよく理解してないのがありありと分かる。個人的には柄谷行人の著作は好きだけど、それは別の話
1239034069 私が日本の評論家を馬鹿にするようになったのは、あっちこっちの展覧会に通いまくって芸術(少なくとも絵画)の鑑 賞力がついてきたせいでもある。セザンヌで騒ぐ奴がいるけど本当にこいつら分かってるの?と彼らの言動を疑うようになった。日本の評論家は西洋コンプレッ クスなのか?
1239034063 日本のクラシック評論家が体現していた大指揮者・大演奏家主義が私には馴染めなかった。いわゆる大指揮者や大演奏 家のロマン主義志向がどうしても好きになれなかった。だからこそ古楽演奏は私にとって革命的に思えた。これは私が日本の評論家を馬鹿にし始めたきっかけか もしれない
1238945825 世界幻想文学大賞は受賞作の質の差が激しい、ウルフやクロウリーやプリーストが受賞しているので高度な作風がとる 事もあるのだが、何でこれが?と思えるようなつまらない作品も多い。毎年受賞作を出しているのに著者の重複なしのせいだろうが、それにしてもおもねりすぎ じゃないかと感じることがある
1238913285 自分と同世代(30前後)を含む若い世代の評論家(気取り)が大嫌いだ。一生懸命に同時代分析したり他世代と差別 化しようとしてるけど、当のお前らのその表層的なメタぶりっ子こそが時代精神の表れだ。だが問題は上の世代にも教養のある論者などろくに見かけないことだ (あちゃ~)
1238856750 文学関連でここ数年で一番驚いたのは、カズオ・イシグロ「私を離さないで」を相当な本読みも含めて褒めていたこと だ。「日の名残り」は読んで面白かったので、期待して読んでがっかりした。佐藤亜紀があんなの単なるエモだと言ってるのを聞いて(自分の鑑賞力が悪いので はないと)つくづくホッとした
1238824651 私は言葉遊びにあふれたルイス・キャロル「不思議の国のアリス」から惹かれたところがあるので、異世界物語も必ずしも嫌いではないが、どっちかというと凝ったつくりの作品方が好みに合うようだ
1238824645 トールキンの「指輪物語」は一応全部読んだけどあまり好きではない。むしろ「ホビットの冒険」の方が好きだった。他の定番「ナルニア国」や「ゲド戦記」も好きだった。だが、これ以外となると幻想文学も方向性がいろいろあって好みが分かれやすい
1238824634 私はもともと幻想文学ファンだったのだが、いつの間にかあまり読まなくなってしまった。別に嫌いになったということではないのだが、大長編が多くて読むのが大変とか、翻訳事情が悪いとか、自分の好みの方向性とか、理由はいろいろある
1238772395 認知科学の根本的な疑問は「認識とは何か?」だが、これは古代にまで遡る歴史の古い問いだ。きちんと科学として問うことができるようになったのは比較的に最近だというのはもしかしたら驚きかもしれない
1238772381 日本には認知科学の基礎をやってる人は知る限りいないも同然だし、そもそも未だにろくな情報さえない。認知科学の基礎への興味は私の内から湧いてきたものだ。そのせいか、未だに日本で私と同じ問題意識を持っている人は見かけない
1238772375 人文社会科学の根本的な疑問のひとつは「近代とは何か?」なのに、日本じゃそれがろくに受け入れられていない気がする。現代思想はこの疑問の派生形態でしかない。この点において、マルクス主義が衰退した後の日本は特に無残
1238682278 だいたい、ネットで実名でもおかしな事を言ったりやったりする奴はいくらでもいる。単に実名なら良くなるは幻想。実名で自由に発言できる社会を作ること自体が先決。というか、それ以前にまっとうに論議ができる人がいなさすぎる(言い訳とか錯乱とかうんざり)
1238682247 ネットでは実名で意見言えって言うやついるけど、日本のネットで実名で発言しているのはたいてい作家や学者のような現実からの束縛が薄いか実名にすることにメリットがあるかのどちらかだ。ネットで実名にしろは日本の現実を見ない甘い見解だ
1238597497 こうやって別にミニブログを作ると(間違えを恐れず)気軽に物が言えていい。何といっても認知科学以外の話題に好きに言及できるのがいい。(認知科学の他でも)私の趣味は独特なのでどうも大っぴらに発言しづらい
1238597475 ネットでの知り合いはみんなtwitterに行ったの知ってるけど、私の場合は単なるメモのつもりなので面倒。ネットでのコミュニケーションが私にはどうも煩わしい。どうも好き勝手が言いにくくなりそうで…
1238593915 アフォーダンス馬鹿とか創発バカとか大嫌い。アフォーダンスという概念だけで解放感を味わうとか(頭いっちゃてる?)創発を都合よく生み出せるとか(根本が間違ってるって)
1238593250 ピンカー読んで生成文法ダメとかいう人(はぁ?)もいれば、国際学会がキャンセルされたから認知言語学は衰退したとかいう人(そうなの?)もいるしで、断片的な情報から勝手に推論されると困ってしまう
1238593195 クオリア学者が脳科学者を名乗るのが迷惑なように、DJ学者が社会学者を名乗るのもやめてほしいと思う。とはいえ(学術的に怪しい)評論学者が日本に跋扈するのは今に始まったことではない気もする
1238592909 私は生物学的還元主義が大嫌いで、だからこそ進化心理学や脳科学のブームに嫌悪を感じていたが、だからこそかえって、きちんとした批判ができるように正しい理解を目指した。表面的な反発で済む奴は気楽なボケだよな!
1238516684 光文社の古典新訳文庫はかなりの幻想文学好き。こんなマニアックな品揃えでやっていけるか心配。過去の例から考えると続かないと思う。
1238430393 最近気づいたが、地方テレビ局のドラマは穴場だ。「ネコナデ」とか「幼獣マメシバ」とか素晴らしい。脇役になりがちないい役者さんを主役に抜擢し、絶妙なキャラクターを演じさせている。
1238430139 私は多様なキャラクター設定が好きなので、萌えブームは共感できると同時にその貧弱さが大嫌いだった。まじめに作ったキャラクターこそが萌えるのに、近年の萌えアニメはその点では失格
1238425684 外国の最新研究を追うのはつい夢中になってやってしまうけれど、それは間違い。最新研究は研究の文脈がわからないと意義が分からない。ミーハーもほどほどに
1238401870 学術的な最新情報を追ってる人をすごいと思ってた時期もあったけど、だんだんと基礎ができてなければそんなことしても無駄だと悟った
1238401838 学問(哲学や科学)に奇抜さを求めてるやつってピンと来ない!他のもっとすごいのと間単に取り替えきくじゃん
1238345791 問題意識なしに哲学に興味持つ奴って訳わからない。単なる追従は楽しい?単に趣味にするならもっと適切なのがいくらでもあるじゃん

1238345728 学問にとって面白さはきっかけ(動機)にはなるが納得(理解)もなければ続かない。しかしもっとも必要なのは問題意識である
1238345646 ドゥンス・スコトゥスはもしかしたら本当にプラグマティストかも知れない?パース恐るべし